海外トレッキング

バルトロ氷河トレッキング

南井英弘

パキスタン・カラコルム山脈バルトロ氷河のトレッキングとゴンドコロ峠越え
期間: 2003年7月18日〜8月15日
メンバー: CL南井英弘 SL飯田 進(甲南OB), SL木下周三(上智OB)、隊員 鈴木頼正(甲南OB)、田邊 潤(甲南OB), 岡 朗(関学経済学部)、藤原健一郎、四條やよい、以上8人
現地エージェント:ニッパ・トラベル

7月19日(土)11時、パキスタン政府、登山局の新事務所で隊長一人ブリーフィングを受ける。ニッパトラベルから申請書は事前に提出してあり、以前から顔見知りの部長さん。提出ドキュメントのページを繰りながら、彼自身が十数か所にサインして終了。政府機関は土曜日の午後と日曜日は休みであり、ブリーフィングが終ったので明日に出発できる。本来6000m以下の山やトレッキングではブリーフィング不要だが、バルトロはインドとの紛争地域に含まれているためブリーフィングがある。

7月20日、朝6時発⇒チラス19時45分着

コースター1台に隊員8人、ガイドなどニッパのスタッフ3人、計11人とザックやクッキング道具を山積みしてイスラマバードを出発。インダス河沿いのベシャムで昼食後宿泊地のチラスに到着。チラス到着の少し前に、夕日に輝く八千m峰ナンガパルバットを眺めることが出来た。チラスでは例年通り、夜中も気温がほとんど下がらず、40℃前後の暑さの中、空調なしで一夜を過ごす。春からナンガパルバット近くで頻発している大地震と局地的な大雨でこの一ヶ月間カラコルムハイウエーは度々通過不可能な状況にあったが、何とか走り抜けることが出来た。落石、土石流の跡が生々しい。

7月21日、5時半発⇒スカルド(2300m)着午後3時

ジャグロットあたりからの朝日に輝くナンガパルバットを写真に撮り、インダス河沿いの青天井のレストランで昼食、悪路をドライブしてスカルド着。2日間で735kmを走行している。

7月22日、高度順応のため、デオサイ高原(標高4000m)にジープ2台で出かけた。途中3000mと3500m強のところでそれぞれ30分ほど滞在し、高山植物の色とりどりの花が咲き乱れる高原で2時間半ばかり、写真を撮ったり、散歩をしたりして高度順応に努めた。

7月23日、6時発⇒トンガル着午後1時。

隊員は2台のジープ、荷物とニッパのスタッフ8人は別の2台のジープでトンガルまで入る。トンガル手前で橋が崩れており、お互いにジープを乗り換えた。アスコーレまでジープで入る予定がトンガルとアスコーレ間の道が数箇所崩壊しており、トンガルまでしか入れなかった。5年前、スコロからの帰路、ジープ待ちで1泊したトンガルは沢山のポーター達と人糞の山で、悪臭に悩まされた基地だったが、今回、テントサイトは整地され、便所棟が設置されるなど清潔で木陰のある景観の素晴らしい場所に変身していた。

7月24日、7時発→コラホン(3000m)着14時

トレッキング初日、70人のポーター、8人のニッパスタッフと共にトレッキングを開始。2時間でアスコーレ着、警察を訪問。各自が先方のノートに署名、登山届を提出した。想像どおり炎天下、強烈に暑い中の歩き始めとなった。5年前に登山をした思い出のスコロピークは残念ながらガスの中で見えなかった。キャンプ地到着1時間ほど前から突然の雷鳴と共にものすごい通り雨が歓迎してくれた。この雨で気温も少し下がり、カラコルムの猛烈な暑さのため意識朦朧として歩いていた2人の隊員も救われた。この後7月27日夜、28日朝そして8月2日夜に小雨が降った程度で8月4日の吹雪までほとんど快晴が続いた。

7月25日、7時30分発→ジョラ(3120m)着12時半

総勢86人が一斉に出発する光景は壮観なり。ビアフォ氷河の末端を横切り、パンマー氷河から流れ出たデュモルド河の濁流に架かるつり橋を一人一人渡ってジョラのキャンプ場入り。

このつり橋は現地人が架設し、一般に開放している。渡橋料は外国人が20ルピー(40円)、ポーターは15ルピー。水量が多く、激流の渡渉は全く不可能であり、この橋がなければパンマー氷河まで遡行して左岸に渡るしかない。丸1日以上の時間を要するので有難いものだ。毎日テントサイトから見てきたバコール・ダッソが姿を変えて目前に迫り、その奥にマンゴクソールが大きく見える。

パキスタンの篤志家(ムシャラフ大統領の某腹心の夫人)の支援で、ジョラのキャンプ場は驚くほどに整備されている。清水がサージタンクにひかれ、そこから各所にパイプで給水している。洋式、現地式のトイレ棟が10戸、洗面台が5台、シャワールームが2棟、手洗い用の水道栓が数箇所設置され、太陽光発電を利用してサイトでは夕方から23時まで10本の明るい電灯が点灯されていた。また、サイト内に細いパイプを敷き詰め、沢山の柳やポプラの苗木が植林されている。

ジョラのキャンプ場(太陽電池パネル、電灯等完備)
ジョラのキャンプ場(太陽電池パネル、電灯等完備)

7月26日、7時発→バルデマル(3165m)着12時

デュモルド河を少し下り、再びバルトロの本流(ビアフォ谷、ブラルド河)に沿って遡行。テント場はちょろちょろと濁り水が流れる荒涼とした山裾だ。テント場の上にはチョリチョが覆い被さるようにせまり、東にパユーの岩峰が大きく見えている。

7月27日,6時45分発→パユー(3285m)着12時

左の氷河から流れ込む濁流を渡渉。流れに足をとられて右足が膝近くまで激流に浸り、プラスチック・ブーツの中は冷たい水でびしょ濡れになった。途中から、やっとバルトロ氷河の舌端部が見えてくる。本来見えるはずのK2は薄い霞のために見えず。

パユーのキャンプ場にはジョラと同様に立派な設備が出来ている。ゴミや悪臭は全く無い。白ポプラの大木や柳などの木立ちの中を、ツーリストサイトとポーターサイトに2分し、トイレ棟、洗面所,洗濯場などが完備され、清水がサージタンクを経て、それぞれに給水されている。

毎日、新しい宿泊地に到着後、高度順応のために高みを目指して登っているが、今日は急傾斜の裏山に100m程登った。連れてきた3頭の山羊を、ポーターを含めて全員で御馳走になった。いつもながら新鮮なレバーの油いためは殊のほか美味しい。

7月28日、パユーにて終日休憩

サイトからの展望;グレート・トランゴ、カテドラル、ロブサン・スパイヤー、ムスターグ・タワーの一部など。

パユーのキャンプ場から下流方面
パユーのキャンプ場から下流方面(シャワー、洗濯台、洋式トイレあり)

パキスタンTVのドキュメンタリー「バルトロ氷河」の取材を受ける。また、ハイポーターのグラムは田邊氏の発案で対岸にあるパキスタン軍の軍馬の基地に出かけ、軍馬のチャーターについてネゴ。明日、2頭だけウルドカスまで5000ルピー(10000円、足元を見てかなりボラれている気がする)でOKとなる。

昨日、若いオランダ人男女の2人,本日、南アフリカ・フランスの2人がテントサイトに入り、その後10数日間ゴンドコロ峠を越えてフーシェまで同じ行程となった。

7月29日、7時15分発→ホブツェ(3700m)着16時過ぎ(9時間弱)

1時間ほど歩いて、やっとバルトロ氷河上に出る。

バルトロ氷河舌端部(右の盛りあがった下)
バルトロ氷河舌端部(右の盛りあがった下)

途中からバルトロならではの景観が続出、トランゴタワー、ユリビアホー、グレート・トランゴ、ネームレスタワー、カテドラルそしてブロードピーク(8051m)も。ホブツェのテントサイトは増水で水没しており、なんとか水溜りを避けて路上に設営した

右岸(ネームレス等・・・)
右岸(ネームレス等・・・)

鈴木、田邊はチャーターした馬(驢馬か)でホブツェ経由ウルドカスに入る。3度下馬しただけで、8時間を要したと。

7月30日、7時発→ウルドカス(3930m)着11時

飯田氏が出発時から遅れ気味、熱(*帰国後医師の診断結果は細菌性鼻炎だと)があるようだ。道中はムスターグ・タワー、ロブサン・スパイヤー、ビアンゲ、ウルドカスピーク、ガッシャブルム山群のG4(7929m)とG2(8035m),クリスタルピーク、マーブルピークなど針峰が一歩毎に姿を変える。ウルドカス到着後、高度順応のために100mほど裏山に登る。バルトロ氷河が俯瞰でき、一日の労苦も報われる。ブロードピークが輝き、これらのピークから流れる氷河にそれぞれの表情有り。

本日はシーア派イスラーム教徒にとって、聖なるアシュラの日である。夕方、我々のガイドを含め現地人スタッフ全員78人と他隊のポーターなど百人近くがキャンプ地の一角に集まり、シーア派第三代目イマームであるフサインの殉教を追悼している。ある者は自分の体を力一杯たたき、殆んどの者は涙を流して、一斉に悲しい声でコーランの一節を詠み、唯一神アッラーを称えている。今から1300年前にフサインの受けた痛みを追体験し、涙を流して悲しみに耐える姿は長年イスラーム教徒たちと接しているが、どうしても私には理解できない。

7月31日、7時出発→ゴロ2(4165m)着16時、朝の気温;3℃

昨日から不調を訴えていた飯田氏は解熱剤が効いているが、ここで滞在し、体調が戻ると馬で追いかけることにした。目前にG4、G2を眺め、ブロードピークそれにマッシャブルムが加わり、素晴らしい景観の中の終日だ。

8月1日、7時出発→コンコルディア(4450m)着15時、朝の気温;0℃

コンコルディアに近づいてやっとK2(8611m)が均整の取れた、魅力的な姿を見せた。またバルトロカンリの真っ白な山容も格別だ。

ブロードピーク、GW、GU(GWの右に重なる白いピーク)
ブロードピーク、GW、GU(GWの右に重なる白いピーク)

テントの中に寝転んで、K2,ブロードピーク、ガッシャブルム四峰、ゴドイン・オースティン氷河を眺めている。まさに至福のひと時だ。

ムスターグ・タワー
ムスターグ・タワー

体調不調の飯田氏はウルドカスから馬でパユーに向かうとパキスタン軍の電話で連絡有り。

8月2日、休養日、コンコルディア周辺で散策、登山者冥利に尽きる時を過ごす。

K2
K2

コンコルディアを中心に半径15km内に6500m以上の針峰、巨峰が41座、8000m峰も4座あり。朝から晩まで、それらの名峰群に囲まれての一日だった。

テントの中からGW
テントの中からGW

G4の基部方面に散歩に出かけた。トレースの無い氷河上の散策は大小クレバスあり、氷河上の融水の急流有り、氷壁有りと危険極まりないことを再認識させられた。チョゴリザ全容を見たかったが前山が邪魔になり、頂上稜線しか見ることが出来なかった。夕方にはポーター達が歌い、踊り始める。彼らに引き出されて踊るも、早いリズムになるとやはり息がはずむ。夜に小雨が降った。

8月3日、7時半→アリーキャンプ着12時半→ムニール・キャンプ着15時15分

木下、藤原氏と3人でゴンドコロ峠越えに向かう。同行者はガイドのイサ、HPのグラム、コックのバッシールとポーター10人。他の4人は往路をアスコーレに下山。

出発時は曇り、周囲の峰は全て雲の中。藤原氏が途中から,急激に不調になる。夕食後から夜中23時半までテントの中にて起座姿勢で口すぼめ呼吸続けさせ、早朝出発の準備をさせる。何度パルス・オキシメーターで計測してもSPO2値は50〜56ぐらいにしか回復せず。ここでの最良策は高度を一気に下げさせる事だが、往路を下山させても、高度は徐々にしか下がらない。その上、長駆の燃料や食料もなし。後退の道は断たれている状態だ。

8月4日、1時半出発→7時半ゴンドコロ峠(5380m、パキスタン軍関係資料では5700mの表示あり)→ヒュースパン(4485m)着14時。(雪、強烈な吹雪、霙、雨)

雪が降り出している。ヘッドライトを点灯して出発。氷河上を歩き出すと共に、アンザイレン。藤原氏の荷物は小生が担ぐ。初めはハイポーターが藤原氏をザイル2本で汽車ごっこのように、曳きながら登るも力が尽きる。ハイポーターが背負ってクレバス帯のフィックスロープ部分、数百mを含めて猛吹雪のゴンドコロ峠まで担ぎ上げた。途中、持参した酸素を吸わせるが効果が全くない。峠に予定より3時間遅れの7時半に到着。本来、晴れている日なら、朝陽が照りだすと激しい落石が発生するゴンドコロ側の下降は避けるべきだが、逆層の急斜面に30〜50cmの積雪有り。幸い落石発生の頻度は少ないようだ。凍りついたフィックスロープを取り出し、スリングを利用して藤原氏が滑落しないように注意を与えながら数百mの非常に急な斜面を下降する。木下氏は8環を使って懸垂下降をする。G2登頂成功のイタリア隊ポーター2人は我々のガイドが首筋を捕らえて滑落を止めたが、背負っていた荷物は2つとも雪の斜面を谷間に消えていった。

石油のカンテラをさげてヴァイン氷河の急傾斜の雪面で我々を追い越していったハイポーター達が早朝7時半に到着したヒュースパンに、我々はやっとのことで14時着。高度が少し下がったためか、藤原氏は致命的症状から脱したようだ。

この度の最大の楽しみはゴンドコロ峠からK2などカラコルムの全貌を眺める事だったが、目も開けておれない猛吹雪。山は甘くなかった。

8月5日、休養。(曇り、小雨、時に晴れ間程度)

夜半に小便のために、テントを出たはずの藤原氏はテント場からかなり遠くまで徘徊していたらしく、木下氏がテントに呼び戻している。藤原氏を下山させれば、また背負うような事にもなりかねない。テント内での動きも徐々に良くなっているので、休養日とした。

ここヒュースパンは4年前にベースキャンプにしたところだけに懐かしく、気持ちも落ち着く。

8月6日、8時出発→サイチョウ(3315m)着18時前 朝;周辺は薄氷

終日晴れており、なつかしのタサブラッカ、ライラ、K7、K6、ナミカなど針峰はよく見えるのに、マッシャブルムの頂上だけはガスの中で見る事が出来なかった。心配の藤原氏は昨夜にはしっかりと小便も出た。とに角、ゆっくりながら自力で10時間近く歩いてくれた。下山が遅くなったために氷河からの水流が多くなり,夏村のすぐ下部の激流をハイポ−ターに背負ってもらって渉った。足を滑らせればゴンドコロ氷河本流に吸い込まれるような所でもあり肝を冷やした。氷河から溶け出た膝より深い激流を渡渉したハイポーターは、太ももまで真っ赤にして震えていた。シニアーにはこんなに冷たい水流の渡渉は避けたいものだ。

8月7日、7時半出発→フーシェ村着、ジープでカプルーに下山。

4度目の街道だ。マッシャブルムが終日顔を見せてくれた。フーシェ村で旧知のモハメド・アリ・ガングルと再会し、東京外国語大学ウルドー語麻田豊教授夫妻から依頼を受けたご夫妻自身の最近の写真を手渡した。20年前に麻田夫妻は彼の家に滞在して、ウルドー語を研究された間柄。また、彼は4年前にサイチョウからフーシェ村までKGAC松田政男先輩を背負って下ろしてくれた恩人でもある。

ジープで下山途中、カンデ村が洪水で壊滅していた。橋も流されていたので300m程上流に歩いて、架設の1本橋を渡り元のジープ道で別のジープに乗り換える。そしてマチュルー村でガイドのイサの家に立ち寄り、カプルーではPTDCホテルに泊まる。数年前に出来たシャヨーク河に面した広々とした居心地の良いホテルだ。

8月8日、11時発→スカルド、K2モーテル着14時半

夕方近く、飯田隊全員がK2モーテルに帰着。彼らもバルトロ街道下山は大変だったと。お互い無事を喜び合う。

8月9日、休養、今朝もイスラマバードへのフライトなし。これで4日間欠航だ。

8月10日、飯田、岡氏はキャンセル待ちで空港に行くも座席なく、搭乗できなかった。

私が1981年にカラコルムをトレッキングした時のガイド、現在バルティスタン・ツアー社イクバル社長の招待を受け、有志で訪問。旧交を温める。ガーデン・パーティーだ。庭にはプルーン、リンゴ、ブドウなどの木が沢山ある。奥さん手作りの料理と共に自分で採った果物は新鮮で実に美味しい。

8月11日、9時発→スカルド空港、10時半フライトキャンセル、一旦K2モーテルに戻る。

コースター1台で隊員とスタッフ3人が再度K2モーテルを11時半出発→チラス20時過ぎ着、パノラマホテル泊。夜空には6万年振りに地球に大接近中の火星が大きく輝いている。

8月12日、6時発→イスラマバード20時前着、ラベンダーホテル泊。

8月13日、11時から登山局でデブリーフィングを行った。夜は屋上でシュラフを広げて、夜半過ぎまでペルセウス流星群の見物。月明かりがあるも結構観察できた。

8月14日、ニッパのスタッフを招いて、打ち上げ昼食会を木陰にある露天のパキスタン料理店で開いた。彼らは本当に良くやってくれた。感謝。夕食後、空港に行き、翌15日正午過ぎに全員元気に成田空港着。再会を約して解散した。

この山行で受けた教訓

トレッキングといえどもヒマラヤの山奥だ。メンバーの構成は体力、気力、知識と共に豊富な経験を有する者たちであるべきだと痛感した。

忘備録、雑感

1、汚くて、人糞の山があり、大腸菌うようよなど悪名高いバルトロ氷河だったが、この氷河奥の巨峰を目指す大きい遠征隊はここ2〜3年ゴンドコロ峠を越えて入山するので、毎日出会うのは2〜3人のトレッカーと彼らのポーター達のみで全く閑散としていた。その上、沢山の便所棟がジョラとパユーに設置されるなど環境整備も影響しているのだろう。キャンプ地は勿論のこと道端にもゴミは無く、大変きれいになっていた。

2、バルトロ氷河舌端部から数百mほど下流の左岸に、パキスタン軍の兵站基地があり、バルトロ氷河上に散在する基地への運搬・補給に100頭ほど軍馬が従事している。折角クリーンになった氷河上が馬糞ルートになりつつあるように思われる。

3、アフガニスタンとイラク侵攻の影響で、アメリカ人やイギリス人がイスラーム国であるパキスタンを敬遠して登山、トレッキングに入っていない。その結果、ポーター達の出番が少なく、賃上げのネゴをしないので気分的に楽だ。

4、ジョラ近くに架かる橋は以前プーリー式で各自ロープを手繰りながら渡ったものだが、馬も渡れる立派な吊り橋になっている。バルデマルから少し先の渡渉個所なども架橋をして欲しい。

5、ゴンドコロ峠はバルトロへの近道として、近年クローズアップされてきたが、落石が激しく未明にしか通過できなかった。ゴンドコロ峠の「レスキュー隊」は3年前にフーシェ村の若者により結成された。ゴンドコロ氷河のどん詰まりからゴンドコロ峠(5700m)までゴンドコロ側の落石の頻発する逆層の急斜面数百mに固定ロープを張り、峠から先のヴァイン氷河(下方でバルトロ氷河に合流する)側では数百m、急傾斜で大小クレバスが散在する氷河上部に固定ロープを設置した。使用料金をとるものの、固定ロープのある区間はレスキュー隊員が利用者に同行して安全確保に努めている。ゴンドコロ氷河のどん詰まりから直登していたルートをトラバースの多いルートに付け替えて、上の登山者が引起す落石を極力避けるよう考慮している。利用料は我々3人でRs2500(約5000円)。因みにヒュースパンではテント1張りRs100。5年前の7月、フーシェ村訪問時には雪のために、峠越えが出来なかった。3年前からレスキュー隊のメンバーが夏前にルート開発をするので、登山隊のバルトロ入りを可能にしている。また、登山局もこのレスキュー隊を公認しており、傷ついたロープなど交換するように指導をしている。

6、『ゴンドコロ峠越え』をトレッキングの範疇に入れるのは難がある。頂上に登るのではないが、峠といえども5700mの標高有り。酸素濃度は平地の半分以下。ヴァイン氷河上はムニール・キャンプを出ると直ちに雪崩でできたデブリの上を歩き、傾斜は次第に急になり、大小クレバスが出てくる。峠までこのクレバスの間をぬって固定ロープを数百m設置してあるが、ユマールを使う登山そのものだ。無数にあるヒドンクレバスに落ちる可能性もある。ザイル・ワークも必要だ。アンザイレンしているが、落ち込んだクレバスから自力で脱出する技術も必修の世界だ。ガイドはこんな猛烈な吹雪は初めてだと言っているが、現実に厳冬期の山の状態になった。悪天候になったといえ、このような厳しいカラコルムの5700mの峠越えを、歩けば行き着けるといった安易な響きのする『トレッキング』と呼ぶのは非常に危険だ。

7、道中全員がダブル・ストックを使用した。また、トレッキングに入ってから、朝と夕方にパルスーオキシ・メーター(この度は2台持参)でSPO2を測定し、各自の健康管理に努めた。

8、キャンプ地等の( m)標高は、小生が持参した腕時計(SUUNTO・フィンランド製)の表示した数字である。隊員達が持参した各種高度計とはスカルドまでは有意差は認めなかったが、コンコルド周辺では2〜300m低い値を示した。ゴンドコロ峠はナカニシヤ出版「カラコルム・ヒンズークシュ登山地図」の等高線やパキスタン軍関係の表示では5700mとなっており、小生の腕時計5380mはかなり低い値と考えられる。

紙幅の関係で山々の標高、情景、キャンプ生活、個人のコメントなどは割愛した。

以上

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