海外トレッキング

タイガー・ヒルからカンチェンジュンガ他展望の旅
                                     南井英弘

  2003年バルトロ氷河トレッキングの際、同行仲間に「ダージリンのタイガー・ヒルからカンチェンジュンガを遠望したい」と私の長年の夢を語ったところ甲南大OBから「是非、同行したいので社長業を退くまで待って欲しい」と待ったがかかった。時たま催促しながら待ちに待っていたところ今春の雪見会で「今季限りで引退する」と表明あり。JAC仲間にも声を掛け5名で11月17日〜12月1日の間インド・ヒマラヤに出かけた。

現役の上ヶ原時代に読んだエベレスト遠征など戦前のヒマラヤ遠征隊の多くはダージリンから出発し、その前後でタイガー・ヒルからカンチェンジュンガを仰ぎ見て感動した様子が遠征記に書かれていた。同行した仲間も一度は行ってみたいと50余年思い続けていた同世代の男ばかりだ。

2010年11月17日:

成田発11:30、AI307便でデリーに18時過ぎに到着。デリー到着前に機窓から夕日に輝くヒマラヤが見えた。デリー泊。


11月18日:

デリー発国内便。出発が4時間近くおくれ1時発。バグドクラ着16:00。機内食を食べたがサンドイッチなど全てが有料で、つり銭がないなど混乱が続いた。空港ではこれから10日間案内してくれるガイド(Mr.Athur、アターと呼んだ)が待っていたが、このガイドは山の名前も良く知っており、色々と配慮ができる案内人でこの旅をより充実させてくれた。本来、ここから車で1時間ほどのスリグリまで移動し、宿泊の予定だったがダージリン鉄道のShiliguriKurseong間が8月の大雨で線路が崩壊し復旧していない。そんな事でクルセオンまで車で入った。インド平原からヒマラヤに連なる山道にかかるとアッサム・ティーの畠


がダージリン・ティーの畠に変っていった。
古風な
Cochrane Palace Hotelは左右が切り立った稜線上にあり、見下ろせばダージリン・ティーの畠が延々と続いている。


部屋の名前はカンチェンジュンガ、ジャヌー、カブルー。私の部屋は
Narsingとカンチェンジュンガ山塊の山名であった。標高は1,485mであるが、結構冷えてヒーターが嬉しかった。


11月19日:

午前中にMakaibari茶園を見学し午後3時発の世界遺産・ダージリン鉄道のトロッコに乗り込んだ。線路巾は610mmと極端に狭い。




客車の名前は「チョモランマ」号。


発車と同時に商店の軒すれすれに動きだした。カーブの連続、自動車道路を何度も横切り急坂にあえぐように上っていく。


冬場で日没が早い為、車窓からカンチェンジュンが見えるといった感動的な体験は出来なかった。午後7時前にダージリン(2
,134m)着。130年以上前に英国インド政庁はこのような山奥までよくぞ鉄道を敷いたものだ。河口慧海師も110年以上も前にこの山汽車(トロッコ)に乗ってシリグリからダージリン入りしたことを「チベット旅行記」に書いている。ホテルはFortune Resort Centralといった現代的な名前だが100年以上も前の建造物だった。

11月20日:

早起きして4時に車でタイガー・ヒルに向かう。急な山道を登り30分ほどで到着。暗闇の山頂に大きな建物がありガイドの案内で3階まで上がった。全面が大きなガラス窓の展望室だった。立派な一人用のチェアーにサイド・テーブルがついている。



先に入室したヨーロッパ系の人たちが数名いたが、すぐに50人ほどの定員に達したようだ。その後、到着した人たちは2階に、そして1階に案内されていた。
部屋の外は強風が吹きまくっている。まだまだ夜明けには早かったが建物周辺がガヤガヤと騒がしくなってきたので真っ暗な建物の外を見ると、ご来光を見物に来た方達が何百人と毛布を被り、強風の中、立ったままで日の出を待っている。まるで50余年前に読んだ戦前の遠征隊の記事そのものだった。5時半頃に夜が白んできた。インド人たちはご来光を見るため東側の窓にしがみつきカメラを向け始めた。ヨーロッパ系の人や私達は北側のカンチェンジュンガ側の窓にへばりついた。6時に大きな太陽が遙か遠くに登り始めるとインド人たちは興奮気味にシャッターを切った。私達はカンチェンジュンガが輝き始めると北側窓の場所取りが始まり、強風の窓ガラスも開けられ寒風が吹き込んできた。
その頃、ふと気がつくとインド人たちは殆んどいなくなっていた。
カンチェンジュンガがなんの隔てもなく眼前で白一色からピンクに輝き、

太陽が頂上から麓に広がる氷河や雪原を照らし始めると興奮は絶頂に達した。太陽光線の角度でカンチの姿が変容していく様子に眺め入っているといつの間にか我々だけ5人が残っていた。
 またカンチェンジュンガの左手前にカブルー(7,353m)山群が大きく見えている。今年夏に入手したThe Alpine Journal 2009に10ページを割いて1883年から物議をかもしてきた初登頂論争が書かれていた。コピーを持参してある程度山座同定をしながら同じようなピークが並ぶ山塊を興味深く眺めることもできた。 興奮と感動に後ろ髪を惹かれるおもいで最高の展望室を後にした。車で数分下った山間にカンチを見通せる芝生を敷いた丘があった。宿のレストランからカンチがパッチリ見え興奮の内に朝食を取った。難民を手助けするチベット・センター、メイン道路に面した道路脇のTenzin Rockと名付けた岩場で岩登り講習会を実施中の登山学校。






そして
Himalayan Mountaineering Institute本部、ヒマラヤ博物館、ヒマラヤ動物園などを見学。

11月21日:

1時間ほどインド林野環境省が管理する綺麗な森林帯の中、舗装された広い道路をドライブしてManebhanjangに着いた。ここはネパール(イラム)との国境線上にある。ネパールの事務所で入国を申請し、小型バスから2台のLand Rover (1台は1957年製)に分乗してSandakphuに向かった。英国統治時代に敷かれた巾3m程の石畳の道は100年後の現在も殆んど健在。側溝と水はけに考慮されているのが良く分かる。Singalila尾根上を走る道路はインド・ネパールの国境線上にあり兵舎も点在していた。道路は小さなコブを右に巻けばネパール、左に廻ればインドと国境線のある国の大変さを再認識した。昼食は途中の茶屋Magkulia Lodgeで取るも私達が到着してから米を洗い出した。こんなことで1時間半ほどかかった。とに角、ランド・ローバーにしがみついて延々31km、8時間余でガスの立ち込めるサンダクプー(,636m)に到着した。立派な山小屋が数軒建っている。Hotel Namo Buddha小屋にチェックイン。日没と共にガスも途切れ始め満月が登り始めた。星も頭上に輝き始めた。寒いが小屋に入る気がしない。ガスが流れてカンチの麓まで見えてきたが上半身は見えない。



夕食後、再び重装備でヘッドライトを灯してシンガリラ尾根上を200m程歩いた。満月の明かりでヘッドライトは無用になっていたがカンチは薄いガスの中だった。




エージェントから「小屋が満杯の場合はテント泊」と言われていた。テント用に持参してくれたシュラフに入り、毛布を掛け、彼らの心づくしの湯たんぽを入れて一夜を迎えた。山小屋は全てベッド付の個室、室内には綺麗なトイレもある。快適な一夜だった。


11月22日:

5時半に小屋を出て200m程石畳の道を歩き、凍りついた急な小路から小さなピークに登った。夜が白みだした。下から吹き上げてくる風は冷たいがこの360度見渡せる最高のポイントから下る気にはならない。午前6時にはご来光が始まった。東北のほうにブータン・ヒマラヤの山並み、シンガリラ尾根の先にはカブルー、カンチェンジュンガ山塊、




ジャヌー、




その左にスリーシスターズなどが続き、大きなチョモ・ロンゾ、マカルー、エベレスト、ローツエ。


この8
,000m峰は頂上付近のみガスがあり鮮明ではない。ヌプツエ、バルンツエ、チョー・オユーそしてチベットの山並みの最後にしかと目に焼きついているシシャパンマが鮮明に見ていた。


そしてその左に大きな山塊が2つあった。ガネッシュ・ランタン群とマナスル三山であろう。
何時までも見ていても飽きないが朝食の為、小屋に戻った。朝食後、直ちにシンガリラ尾根のトレッキングに出た。あまりの豪快な光景に見惚れて立ち止まりシャターを切り、50mも歩けばシャターを切り、足が進まない。1時間ばかりのトレッキングを満喫した。
10時半頃に車で下山をはじめ、国境稜線上のShikhar Lodgeで遅い昼食をたべて、マネーバンジャンで車を乗り換え、薄暮の17時にダージリンに帰り着いた。50余年の念願だったタイガー・ヒルからの景観に心底感激したが、サンダクプからの感激はその何倍ものものであった。

インドでは″It is said that if one does not wake up to see the sunrise at Sandakphu, the tour will not remain incomplete."と言われていると聞いていたが、なるほどその通りだと納得した。
サンダクプの峠に“Singalila National Park,Leave nothing but foot prints and Take nothing but memories と書かれた看板が建てあった。


11月23日:

8時半に出発し、ダージリンのチベット仏教僧院Yaga Choeling Ghoom Old Monastery を見学後、Ghum駅近くのダージリン鉄道が急坂でループ状に登坂するところのGorkha War Memorial Parkと名付けられた公園を訪問。




トロッコ列車がループ状に登りきった最高地点で直径100mほどの手入れされた公園からカンチェンジュンガの山並みが一望できる。絵葉書で或いはTVの映像でカンチを背景にした世界遺産のトロッコ列車が紹介されている場所だ。


その後、Melliでシッキム州に入るため入国申請し、パスポートへの押印も受けた。道中、世界で最もきれいだと言われたシニオルチューも見えた。


パパイヤが実る畠やチーク材の林などを抜けて午後5時に今回の旅の最北端ペリン(2,085m)に着き、ホテルに入った。

Newa Regency Hotel見かけも名前も立派だが暖房も無く寒かった。また、食堂ではビールも無く、愛飲家は近くの販売店で購入し、人目につかぬよう古新聞に包んで持ち込んでいた。愛煙家はデリーやダージリンでもタバコは定められた場所以外では吸えないが、シッキム州ではホテルの室内も禁止、物陰で吸うしかないとこぼしていた。

11月24日:

早朝、ホテルの屋上からカンチェンジュンガが今までより大きく見え、シニオルチューも良く見えたがその後はガスに遮られた。





Rabdentse(16701814シッキム王国の都)Pemayangtsegompa(1705年法王ラツン・チェンボ建立)など見学した。

11月25日:

9時半、出発。Rumtek僧院見学などの後、満開の桜、背の高いセントポーリア並木、稲刈りの終わった棚田など見物しながらシッキム州の州都・ガントク(,780m)に5時到着。










Orange Village Resort泊。素晴らしいデコレーションに囲まれた受付、ロビー、食堂、そして広々とした室内、窓から見下ろす景観、そして食事いずれも今回で最高だった。

11月26日:

ダシ展望台、エンチェイ僧院、


チベット学研究所などを廻り山間ながら平坦に造られた長さは300m程、巾30m程の歩道に面した繁華街


を歩き極め付きは露天商街を往復1kmのロープ・ウエーから見下ろした。このようなロープ・ウエーは初めてだ。


11月27日:

食事抜きで早朝出発。途中の茶屋で建設中のダム工事を見学しながら、案内人が持参してくれたサンドイッチなどを食べた。Rangpoでシッキムから出た証拠にパスポートに押印あり。その辺りから20kmでブータン王国に繋がる街道があった。やがてヒマラヤの麓からインドの平原に下り立ち、


シリグリ経由で振り出しのバドグラ着。空港で昼食後機上の人となった。デリーへはグワハティ経由で飛んだので、往路に較べて2倍以上を要した。機窓から何時までもヒマラヤの山並みが見えていた。デリーの空港でワイフは国際線への連絡口に向かい一人帰国の途についた。
デリーでは初日と同じホテルに入る心算が、系列とはいえ違うホテルに案内された。夕食の手配などトラブル続きだったが、強引に我々の言い分を通した。インドでは一般的にエージェントとホテル間などの連絡が不十分なのか、狡猾なのかうっかりするとはめられると聞いていたが何とか難を逃れた。

1128日:

4時ホテルに迎えに来たエージェント手配の車でデリー発列車の出発駅に急いだ。オールド・デリー駅か、ニュー・デリー駅か大きな駅前に出るものと思っていたが30分以上も走って小道に入り真っ暗な小さな汚らしい駅前に出た。これは違うだろうと主張したが添乗した男はここが出発駅だと言う。とに角下りてみた。毛布に包まって寒い地べたに寝転んでいる人たちも駅周辺には沢山いる。半信半疑ながらホームに行ってみると我々の列車が表示案内に出ていた。通過した貨物列車は60両連結の長い編成だった。ホームで足ふみしながら待った。ホームにトイレが無かったので真っ暗なホームを端のほうまで歩くと途中でドンゴロスの塊を何度か踏みそうになったが、旅人が毛布に包まって汽車待ちのため寝ていたのだ。アブダビ時代を思い出した。そっくりの光景だった。
1時間ほど暗いホームで待ったが、定刻にカルカ行き「Himalaya Queen号」が長編成で入ってきた。


磁石を見ると北に向かって走っている。車掌に聞くとデリーには駅が4つある。我々の乗車したのはデリーで最も小さな「Delhi Sarai Rohilla駅」でこの列車の始発駅だ。ニュー・デリーなどは通らないとのこと。1等車のはずだが1等車は連結していない。“Second coach A.C. Chair ar”とあるが座席指定でトイレもついていた。やがてインドの平原からのご来光を拝した。5時間半、列車は平原を走った。山が見え出したところが終点・乗換駅の「カルカ駅」だ。世界遺産であるトロッコ列車(Kalka・Shimla鉄道)に乗った。列車は山道を這い上がって行く。


よくも100年以上前に英国人たちはこんな鉄道を敷いたものだ。終点近くで日没と真っ赤な夕焼けを車窓から感激しながら眺めた。5時間余りかかり、短いトンネルが103あったが景観には変化があり飽きる事無くシムラ駅(2,200)に着いた。車窓から日の出、日の入りを見た一日だった。

英国インド政庁の夏の避暑地・シムラはヒマラヤ山麓にあり、ホテル迄もアップ・ダウンのある車道だった。丘のように突き出たところに立つ古風な素晴らしいHotel Springfieldsに旅装を解いた。

1129日:

車で1時間弱ドライブし、2箇所の丘からインド・ヒマラヤの展望を楽しんだ。


正面のシブリンを中心に東西に果てしなくインド・ヒマラヤの峰々が並んでいた。顕著なピークが少ない上にガイドは山名を知らず、「グレート・ヒマラヤの山だ」と答えるばかり。私も勉強不足で山座同定は残念ながらできなかった。しかし、目前にさえぎるものも無い景観は素晴らしいもので目に焼きついている。

旧インド政庁舎


を訪問するも衛兵が入門を許してくれなかったし、残念なことに山岳博物館など公的な見学ポイントは全てが月曜日で休館だった。英国人が建設したシムラの繁華街など散策したが、石造りの建造物は夫々保全され、音楽堂などとして立派に活用されていた。





1130日:

ホテルの屋根の上に遊ぶ猿達の足音で目覚めた。庭にも沢山の猿がいる。車で1時間ばかり山道を下って、3つの丘を平らにして造成したシムラ飛行場に。滑走路が少し短いので28人乗りを22人に減らして減量し運行している。30分遅れでテーク・オフしたが、飛び立つやインド・ヒマラヤの白き連峰が機窓から見え別れを惜しんだ。



1時間半ほどでデリー空港着、インド門やフマユーン廟など見学後、デリー空港国際線ターミナルへ。
21:10発AI便で帰途についき、翌121日、8時過ぎに成田に帰着した。

全行程で好天気に恵まれ、全員が朝昼晩と現地食を美味しく和やかに食べ、毎食「食べ過ぎた!」と言いながら誰一人 下痢もせず旅を楽しんだ。トイレは山小屋や街道の茶屋なども全てが水洗であり、日本の多くの山小屋より遙かに清潔で綺麗だった。

 同行者:田邊潤(甲南山岳会)大橋晋(国学院大山岳会)、越田和男(甲南山岳会)以上3人はJACメンバー。そして私とワイフ(南井多恵子)5名。

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