個人山行・随想・研究

徳本峠越えと焼岳

鮎川 滉

尾崎進氏と共に信州に向い、東京より参加の南井英弘氏とは集合場所の松本駅前“松田屋さん”で合流し“徳本峠”を目指した。

翌日早朝、新島々駅でタクシーに乗り島々谷発電所付近で下車し、平坦な林道(往時は、トロッコの枕木道は歩きにくかった)を歩きだす。右手山側より落ちる水場で朝食(出発直前、宿の近くのコンビニで仕入れたおにぎり、ゆで卵に味噌汁)をとる。二股よりの登山道は下草が綺麗に刈られ広闊な島々谷南沢の平坦な登山道を峡谷に沿って奥へと進む。長い単調な道に変化を求められるものは右岸左岸へと架けられた新旧の橋のみで高度はほとんど稼ぐことはない。“岩魚留小屋(無人?)”に至りのんびり昼食。大休止の後、ようやく坂道となった沢筋に沿って高度を少しずつ稼ぐ。次第に周囲は静寂のみが支配する深山幽谷の境となり誰一人会うこともない沢筋を三者は昔を回想する。尾崎氏(二年部員として)は「1957年の夏山合宿は猛烈な豪雨の中を登った。過酷な合宿だったな〜」の声が聞こえる。

終始ゆっくりしたペースで登高する三者の歩調は合致し足音を意識しない。同じ山岳部出身、半世紀前に会得した山の歩き方は身体に沁み込んだまま同じリズムを保つことになっているのであろうか。歩調が合うことは心地よい山歩きの一つでもあることに気付く。本流に横たわる巨木を伝い右岸へ移り急坂にとりかかる。標高1700m付近よりジグを繰り返し汗する頃に最後の水場“力水”で一服する。樹林はまばらになり先ほどから降り出した雨を今やそれぞれ薄くなった頭髪に同時に受け、苦笑しながら雨具を着装する。

突然、一壺天の “徳本峠小屋”が眼前あらわれる。

徳本峠越えと焼岳

楽しみにしていた峻厳な明神岳や前穂高岳は濃いガスにその姿を認めることはできない。

徳本峠越えと焼岳

俗界を隔て歴史を積み重ねてきた徳本峠小屋には先客2名が座を占める。

暮れ行く外の景色は樹齢130年と云われる奇妙にねじれ曲がったダケカンバを近影に、遠景に万仞の谷と霞む小嵩沢山を印象派の画家が描いた絵画のように見るのみである。美しい小鳥(メボソムシクイ?)が広場のベンチから出入り口へ近づく。赤く灯されたストーブを囲み家庭的な夕食にぬくもる。

13日。中宵より断続的に猛烈な風雨(新潟水害)はトタン屋根を打ち抜くように叩く轟音に何度も目覚める。峠を越流する雲霧は極限まで収斂された烈風が吹き上がり西向きに幹を伸ばす巨木は大きく翻弄され枝葉が飛散する。霞沢岳への登高を断念する。

小屋番は「まもなく天気は回復しますよ」と云うので、是非ともW・ウエストン師が書き残した「The view from near the highest point of the pass is one of the grandest in Japan」を期待し、しぶとくお昼まで待機するが晴れる見込みはなく断念し上高地へ下る。上高地も樹木は倒れ暴風の凄かったことを想像する。JAC登山研究所の木村氏より「ここ数年にない大荒れであった」と聞く。

夕餉のあと、天気予報は明日の好天を告げ、三者、阿吽の呼吸で全く予定していない“焼岳”登山を決める。今まで何度も上高地に通ったものの焼岳に登ろうと特別な関心をもったことはなかったのは何故であろうか・・・

14日、早朝バスターミナルに荷物を預け、田代橋を右岸に渡り焼岳登山道へ取りつく。しばらく落葉松の樹林帯を登り、高度を稼ぐと立ちはだかる

徳本峠越えと焼岳

障壁に架けられた銀色に輝く長い梯子を登り小尾根を回り込むと焼岳の崩壊沢の上部に岩塔が展開し、高山植物の花が咲く草地を斜高し焼岳小屋に至る。

徳本峠越えと焼岳

展望の良い函庭的な丘(溶岩ドームに僅かに蒸気が漂う)を越え下降すると、広々とした平坦な分岐は一方中尾温泉へのルートを示している。頂上へのルートを目で追うが判然としない。地図と磁石を取り出し真ん中の溶岩ドームの左の鞍部へルートを求める。

徳本峠越えと焼岳

白い矢印と丸印を追いながらコルを経由し大岩で阻まれたルートを辿り頂上に到達する。焼岳の最高点は更にギャップを隔てて南に位置するがそこは入山禁止となっているのであろうか?

下山後、登山を始めて40数年、焼岳の名はよく知っているものの、今まで特別登ろうと意図したことはなかった。しかし、登山後、爽快な気分に浸り気持ちが軽くなっていることに気付く。一方、今まで山名から想像し、ある種の雰囲気を感じていたことと、更に今回、焼岳から東方の青空に望める“霞沢岳”が三本槍の岩峰をなし魅惑的な姿で聳え立つ姿をまじかに見て次は是非ともチャレンジしたいと思った。

徳本峠越えと焼岳

今回も印象的な出会いがあった。東京から独りでやって来て暴風を突いて徳本峠小屋から霞沢岳を往復した遭難事故経験者(昨年、雪渓を400mスリップし大怪我。リハビリ中)の看護師さん。焼岳への分岐点で戸惑い、ルートを外し荒い呼吸で登ってきた徳島から来た胸板厚い60歳の陽気な男性。

そして格別は、松本駅前「松田屋さん」の松田平一郎翁(100歳=有名な女子プロゴルファーの中野晶さんはお孫さんに当る)のお姿と母上様亡き後、お店を継がれた祥子さん(50年も前にお世話になった山岳部員の名前と顔を忘れることなく親しく名前を呼ばれ殊のほか驚き嬉しい)とお話できたこと・・・長いときを経て、覚えてくれていて、出会ったときに名前を呼ばれることが意味することは、どんなにか“人情の深み”を含有することかを改めて気付かせて戴く。山旅には多くの感激・感動・感謝がある。

徳本峠越えと焼岳

当時、山岳部の夏山合宿で採用されたアプローチは60kgを担ぎ「称名平〜大日平〜奥大日稜線〜室堂乗越〜劔御前〜劔沢・二股」と「島々〜岩魚留小屋〜徳本峠〜横尾〜穂高・涸沢」の二ルートが交互に繰り返されていた。全く山岳経験はないフレッシュ・マンは一知半解のまま合宿に参加し尋常では語れない“涙の経験”をした。更に劔岳、穂高岳での1週間の定着(雪上練習・岩登り・岩稜登り)後、縦走(約30kgを担ぎ2〜3パーティに別れ立山・室堂又はその逆の上高地まで・・・)の“地獄の1ケ月”に耐えたことは終生忘れることができない経験である。そしてこの経験が端緒となり、山へと傾斜し、終生の趣味とするアプローチでもあった。

老境に入り昔を懐かしみ邂逅に耽るばかりであるが、若い頃には感じなかった自然の美しさが解るようになったのである・・・(‘04年7月11日〜14日)

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