個人山行・随想・研究

マナスル雑感、50年の歳月

※日本山岳会『山』2006年1月号(No.728)より転載

南井 英弘

今年、日本山岳会はマナスル登頂50周年を迎える。

そこで日本山岳会は創立100周年記念マナスル登山隊を派遣。50年前のマナスル隊の記録と比較し、所見を報告してもらった。

2005年春、100周年記念マナスル登山隊に参加した。半世紀前、山岳部学生として羨ましく思いながら一喜一憂し、その後も夢にまで描いていたマナスルだった。しかし、夢にまで見た今回のマナスルは、悪天候のため本格的な登山活動すらできず、心残りの下山となってしまった。

当時、見聞した情報や記録などと今回の登山を比べると隔世の感があり、所感を述べてみたい。

■ ヒマラヤ登山の変化

50年前のヒマラヤ登山は、許可された一部の人達だけのものだった。登山許可取得のためにネパール政府とハードな交渉の末に許可証を入手している。当時は、海外渡航そのものが一般人には認められておらず、認められるのは、政府の各省庁から構成された渡航審議会の許可を得た者のみだった。また、旅券も海外渡航許可を受けた者のみが取得できたが、1回きりの一次旅券であり、ビザは事前取得が必要であった。遠征隊の本隊は船でインドに入っている。海外渡航が自由化され現在とは大きな違いだ。

今回はネパールのエージェントに依頼して入山許可を取得し、飛行機でカトマンズ入りした。渡航費など費用も、国内で自由にUSドルを購入できるし、カトマンズの空港やホテルなどで日本円から現地通貨に交換することも可能である。ヒマラヤ登山は、今や誰でもできるようになったのである。

■ 運送と移動手段の著しい変化

輸送手段に関しても大きな違いを経験した。

50年前は、登山道具や食料などの遠征隊用隊荷の輸送は、日本から船で運ばれ、汽車とトラックでネパール入りした。だが今回は、装備、食料など多くのものが現地調達可能で、日本からの隊荷はすべて飛行便に託した。

1956年の第3次マナスル登山隊では、現地での移動に396人のポーターとキャラバンを組んで、17日間を要してサマにたどり着いている。今は大型ヘリコプターをチャーターし、40分弱でTBCに降りた立つことができる。荷物と隊員、シェルパを合わせて約4トン強を2回のフライトで運んだ。帰路は1フライトで済ませた。その結果、キャラバン中に疲労を重ねて、体調を崩したりするリスクはなくなったのである。

■ 現地エージェントとの連携

過去の海外遠征では準備段階が大仕事であった。隊員や関係者は、登山許可の取得から、食料・装備の買い付け、梱包、出荷と奔走したものだ。今回は大蔵喜福隊長が長年築いた人脈とノウハウで、隊員はほとんど手助けすることもなく準備を終えた。裏を返せば、準備に時間を避けない多忙な人も参加できるようになったのである。

ネパールでは現地エージェントが非常に機能的に活動している。登山許可の申請から現地のトランスポーテーションの手配、テントや酸素ボンベ、マスクを含めた装備、食料と燃料の調達、同行のシェルパ選び、登山隊からの連絡本部的役割など、ほとんどの仕事を手際よく処理し、信頼できるものであった。過去には多くの隊がポーター問題で苦労しているが、今回はすべて現地エージェント派遣のサーダーが責任を持って交渉し、彼らが雇用した。当時、隊員が苦労したポーターへの日当の支払いもサーダーの責任で実施した。

■ 登山・・・隔世の感

登山現場では50年ひと昔の間がより強かった。

なかでも通信に関しては、革命的な変化があった。大蔵隊長と河野隊員が、それぞれパソコンをBCまで担ぎ上げた。ソーラー発電用パネルとバッテリーを用いて、パソコンを立ち上げた。そして衛星電話を使用し、JAC本部や在京の関係者、カトマンズのエージェントなどと気軽に連絡を交わしていた。毎日行われるマナスル・レポート交信、緊急時のヘリコプター手配など、都会にいるのと同じ感覚で行われた。

情報から隔絶された静かな山奥のヒマラヤで、家族や恋人の手紙を首を長くして待った初登頂当時から見ると、考えられない世界に変身したといえる。「マナスル初登頂成功」の伝令を持って走ったメールランナーなる言葉は、すでに死語と化していた。

50年前の初登頂は5月9日、新聞各紙での報道されたのは5月18日の朝刊だった。キャンプ間の連絡にはトランシーバが使われた。今回のBCでは、電源としてソーラー電池を利用した。軽量化と効率向上でソーラーシステムの使用は今後ますます増えるだろう。

装備は軽量と共に強度も増し、耐水性などにも配慮されたウエアを使用した。革靴や帆布製のキスリングは完全に姿を消して、プラスチック・ブーツや軽い縦型のザックが主流である。カメラはフィルムからデジタルに変わり、軽量化とともに現地の情報を即時伝送するのに極めて有効であった。ヘッドランプも電球がLEDに変わり、軽量化の上に長寿命となった。

半世紀前にはニューデリーからマナスル地方の天気予報を毎日ラジオで放送してもらったものだが、今や「アドベンチャー・ウェザー・ドット・コム」に依頼して、毎日、ニューヨークからエヴェレストおよびアンナプルナ周辺の一週間分の気象予報データを、ベースキャンプまで送信してもらえる。それも無料で、大変心強く思えたものである。ソーラー電池の充電が十分な限り、メステントには電灯が灯った。不足時にはプロパンガス灯が使われた。当時のローソクとは雲泥の差がある。

位置の確認のためには磁石とGPSを使用した。正確な地図がある限りGPSは信頼できるが、マナスル周辺の正確な地図はない。河野隊員が伝送したデータを基に、JAC本部の宮崎紘一氏が日本で地図上に入力したものを、翌日にはBCで確認することができた。

■ サマ集落の様子

サマでは、半世紀前に集落民の要求に対し、毅然とした態度で現地人達と交渉に当たったスッパ(ネパール政府に直属し、数十村を掌握する郡長格の役人)のような存在を、今回感じることはなかった。それに引き換え、マオイストの恐怖が、ネパール全土に広がりつつある。マナスル登山の際、ブリガンダキ経由、徒歩で入山した外国隊は、マオイストから丁寧な歓迎の言葉を受けながら、中央政府に支払った同額の入域料を要求され、やむを得ずに支払っている。

サマ集落では、街道に電柱が立ち、学校や寺院では昼間から裸電球が灯っていた。お米がなくなり困った彼らが、カトマンズで買い付けた大量の米を、我々を迎えに来る空荷のヘリコプターで運んでほしいと依頼してきて、隊長が了解するという一幕もあった。ドイツ、スペインの2隊と日本隊がプレ・モンスーン期に入ったので、現地住民たちは潤ったようだ。

ブリガンダキ沿いに数日かけて荷を運ぶため物価は割高になり、灯油もないようだった。チベットへ抜けるキャラバンも見かけず、外国人とレッカーも1人見ただけであった。

政府からの支援もほとんどないまま、サマの村人はこの半世紀をブリガンダキにへばりついて、ひっそりと生きているようであった。

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