会員の海外登山活動記録

ムスターグ・アタ登頂と現地の実情

南井 英弘

この夏は、シニア2人でもひたすら歩けば登頂可能な7000m峰とのことで、中国新彊ウイグル自治区崑崙山脈のムスターグ・アタ峰(7546m)を目標にした。幸い登頂できましたので簡単に報告すると共に、現地情勢についても付記します。

5年連続通ったカラコルム・ヒンズークシュ山域をカラコルム・ハイウェーで通り抜け、クンジエラブ峠越えで中国に入国。タシュクルガンで1泊後ムスターグ・アタの山麓スバシ(3700m)まで車で入り、そこで4泊して4100m峰やBCへの往復で高度順応に努めた。10頭のラクダに荷物を託し、7月9日BC(4300m)入り。1日の休養後、高度順応を兼ねて荷揚げ。キャンプ予定地に荷揚げ後いったんBCに下って休養し、その後それぞれのキャンプ入りといった典型的な極地法形式で登山活動を実施した。

BCとCl(5300m)のルートは晴れていれば土と石ころの踏み均された山路だが、降雪があれば直ちに雪が2〜30p積もり吹雪の時など要警戒となった。C1から上はすべて氷河上となり、人間を飲みこみそうな小型のクレバスが所々に口を開けていた。吹雪やガスあるいはホワイトアウトの中での行動は危険だ。C1とC2(6000m)の中間に大きなクレバス地帯が横切り、4カ所は底無しで、今にも吸い込まれそうなクレバスを冷や汗をかきながら渡った。C2とC3(6700m)間は広大な雪面を登るのみ。C3予定地にテントなどを荷揚げの後、BCで3日間の休養をとって7月23日にアタックに出かけた。

C1、C2、C3にそれぞれ1泊後、7月26日午前6時15分にC3を出発。広い雪面の登りが続き、何度か幻の頂上に迷わされた。やがて雪面から大きな岩魂が現れ14時30分に頂上に立つことが出来た。残念ながら登頂の少し前から山頂付近にガスが流れ出し、突然頭の上にぼっかり青空が見えることもあったがコングールなど遠望を楽しむことは出来なかった。全員で記念写真を撮り腹ごしらえをして30分後に下山の途についた。途中ホワイトアウトになることもあり広大な雪面のためトレースを絶対に見失わないよう慎重に、こんなに登ったかなと思いながら長い長い下降の未、19時30分にC3に帰還した。翌日は我々二人とも軽い凍傷を負っていたのでC1泊の予定を変更し、多少きついがBCまで一気に下山した。(注:この報告は新彊ウイグル時間で記しています。日本で登山準備中に読んだ先人連の報告書の中で朝の出発時間が異様に遅いのが気になっていましたが、これは新彊時間より2時間早い北京時間を採用したものです。参考まで記しておきます。)

ムスターグ・アタは崑崙山脈の中でも独立峰のような存在で、しかもだだっ広い尾根と氷河を登る。快晴の日には遠くにコングールやパミール高原の穏やかな形の山々が重なるように見えるが写真の被写体としては離れすぎ。広大な氷河上は5500〜5600m付近のクレバス地帯を除いて変化もなく写真にならない。その上悪天候続きだったので写真を撮るには最悪だった。

高度順応については昨年カラコルム・スパンティークでの失敗を活かし慎重に時間をかけて実行した。6月8日に富士山に日帰り登山をし、その後新宿に開設されたばかりの低酸素室にも出向いた。パキスタンから中国入りをする前日に宿泊地のソストからクンジュラブ峠(4600m)に車で往復し、無人の峠を散策して低酸素の高所に体をさらした。その日から毎日大量の水分摂取に努め、放尿量を多くした。スバシとBCでの高所順応山行後、パルス・オキシメーターによるSPO2(動脈血酸素飽和度)の計測結果も体が順調に高所に順応していることを示していたのでC1偵察の日からダイアモツクス1錠を毎朝食後服用した。昼間はもちろん夜にも頻尿と思われるほど放尿した。徹底した口すぼめ呼吸が功を奏し登降時に特に高度の影響を感じることはなかった。7000mを越す頂上付近でも歩幅を極力縮めて、ゆっくりではあるが30分ほど歩いて数分休憩のペースで登り続けることができ、1度も立ち止まって深呼吸するような苦しい思いもせずに快調に頂上に立つことができた。

以下、KGAC皆様の参考になるよう今夏の情報を記します。

1.今夏の気象状況

我々がスバシに着いた日に、ちょうど下山してきたスイス隊の隊長に話を聞くと「エベレストに11人登頂後、6月中旬からムターグ・アタ入りしていたが毎日のように強風が吹き、大雪が降り、わずか1日の晴れ間を利用して3人がやっと登頂できた。こんな意地悪な山はない。気をつけよ!!」と教えてくれた。その後も雨、雪、強風、雷が毎日のようにあり、2日として晴れ間が続くことはなかった。私達はアタックを前にBCで3日間の静養をしたが2日日、3日日ともにBCまでかなりの降雪があった。吹雪の中をC1、C2入りして好天を捕らえてC3経由アタックすべく腹をくくっていたが、全く幸運なことにC1入りした日から5日間ガスが出たりしたものの絶好の登山日和が続いた。BCに帰り着いた翌朝から2日間かなりの降雪があった。撤収日の朝は晴れていたが正午頃から悪天となり、その翌日にはスバシまで雪が降る大荒れとなった。積雪量はBCで夜半から朝まで多い時は20cm、C2建設後6日日に再訪問したときには、吹きさらしの氷河上にかかわらず1.5m近くの新雪でC2のテントの頭が僅かに出ている程度だった。悪天候と共に気温も低くBCでも氷点下になることが度々だった。C3を出発後、太陽が照りだした8時過ぎの気温が氷点下21度であったことからC3の早朝は氷点下25〜30度近くなっていたことでしょう。不名誉なことに私は足指に、仲間は両手指に軽症ですが凍傷を負いました。

2.ムスターグ・アタの山麓とBC周辺

山麓の基地となるスバシは中国内のカラコルム・ハイウェー沿いにある。タシュクルガンとカシュガル間の定期バスを利用することもできるし両都市から大小の車をチャーターして容易にスバシ入りすることもできる。スバシには比較的きれいな氷河からの融水が流れておりキャンプには適している。ただしこのスバシにはキルギス系現地人のパオが一軒あるのみでテントを持参しない限り宿泊所は無い。登山隊はスバシからBCまでラクダで荷揚げするのが一般的である。我々もラクダ10頭に隊荷を積みBC入りしたが、費用は1頭200元(注:1元は15円)であった。BCまでの道はマウンテンバイクで登る登山者がいるほどなだらかで踏み跡がしっかりしている。また一般人には許可されないが、BCまで中国科学アカデミー氷河研究班のトラックや小型4駆車も入っていた。

ベースキャンプ地は氷河末端部のモレーンと尾根の支稜に囲まれた窪地にあるため、強風から守られ、中央にモレーンからの融水が終日流れており快適なキャンプ地である。夏場は現地人によって食堂が運営され、誰でも何時でも利用できる。ヨーロッパ各国からの公募隊の大半は3食この食堂を利用していた。ちなみに1日3食で120元とのこと。利用者の評価は質量共に満足しているとのことだった。登山者がいる限り新彊登山協会から各登山隊に派遣されたリエゾンオフイサーがBCに駐在しているが、彼らもこの食堂で喫食していた。食堂用大テントの他にシャワー用の背の高いテントまで設営している公募隊もいたが、現地人の運営するシャワー小屋もあったのには驚いた。ヤクの糞を燃料にして約30リットルの湯をシャワーとして利用していた。(1回20元)。寒い朝でも利用しているヨーロッパ系の登山者を見かけた。また鉄板囲いの男女別トイレがあり、女性には概ね好評のようだった。BCからC1まで荷揚げはロバが利用できる。ロバはBCにたくさん見られ、ロバ使いも常駐しておりや吹雪の中でも作業していた。(ロバの荷揚げは1kg8元)。C1とC2間はキルギス系の人夫が荷揚げ、荷下げをやってくれる。このような仕事にあぶれた現地人たちの娯楽はどリヤードらしく、夜明けから暗間がせまるまで(つまり1日中)、吹雪の日は大きい透明のビニールシートで小屋がけをつくり玉突きゲームを楽しんでいた。1プレイが一人1元、イスラム教徒らしく勝負にお金は賭けていないようだ。尚、登山後に天山南路のシルクロードをカシュガルからウルムチまで車で旅しましたがその間どこでも携帯電話は通じました。ただし、ムスターグ・アタ付近はまだ開発されていませんでした。

3.登山者

BCには通常100近くの大小テントが張られ、100人以上の登山者がいたが大半は公募隊の参加者でヨーロッパ系が多い中、ブルガリア、キルギスの公募隊もいた。フランスの公募隊は6カ国から9人の参加といった典型的な国際公募隊であった。我々のように仲間による隊は中国隊とスイス隊ぐらいで例外的存在である。C1以上の氷河地帯を我々は終始アイゼンで行動したが、これも全く少数派で、中国隊と自転車を担ぎ上げるスウェーデンのサイクリストがスノーシュー(輪かんじき)を使っていた他は全て山スキーで登降していた。私達と同じ日に登頂したスイス隊の2人はC3からスキーで頂上まで登り、その日の内にBCまで帰り着いたとのこと。またスキーでアンザイレンしながら見事に登降しているペアもいた。スキーヤーに庄倒されるムスターグ・アタからマウンテンバイクで下降するべくC2近くまで自転車を担ぎ上げている人が数人いたのは信じられないことだった。C1近くの新雪が積もった氷河上に直滑降や斜滑降をしたシュプールがあり、そこにペダルの跡が残されていたが、実際に下降している姿は残念ながら見ることができなかった。大量の降雪のために、荷揚げしデポしたテントなど見失う恐れもある。雪崩ビーコンを利用したデポ地を見つけて喜んでいる登山隊もいた。今回はピッケルを使用することはなかったが、好天が続くと雪面は滑落しやすいブルーアイスに変わるので常に携帯しておいてほしい。同行のアリ・サム日く「5月にはC1とC2の間はスリッピーなブルーアイスのため、多数のフイツクス・ザイルをセットした」と。また登山者全員がダブルストックを巧みに使いこなしていた。

4.食料の調達

蛋白源の肉類はBCの食堂経営者に依頼すれば、30分ほど下にある夏村から山羊や羊の調達が可能です。山羊は1頭300元で、現地人が解体してくれる。新鮮で実にうまい。但し、解体料の代わりに頭と皮を要求される。特に頭には脳みそ、目玉、した、顎など一番美味しいところがあるが仕方がない。羊は山羊の半額で、自炊の公募隊は羊を購入していた。高原地帯のために地元では青菜など一切採れないところだが、キャベツ、ジャガイモ程度なら2、3日で手配してくれた。お米(ジャポニカでおいしい)はやはりスバシから数kmのカラクリ湖の食堂(宿泊も可能)にお願いした方が良さそうです。なお中国入国時、タシュクルガンでの通関検疫の際には、パキスタンから持参したバター、チーズ、ミルクなどの乳製品そして賞味期限切れの缶詰め類はすべて没収された。〈注)無線機3台も中国政府の許可書を持参していないとのことで一緒に没収されたので付記します。

5.燃料

灯油は冬季には新彊ウイグル地区で販売されているが、春以後は市場から姿を消し、手に入らなくなる。我々の場合はリエゾン・オフイサーとハイポーターがカシュガル近くまで行き、2日間かけて民家を戸別訪問し灯油缶に残った灯油をかき集めました。地元の民家では乾燥したヤクの糞を使用していますが、BCの食堂や中国隊は10kgあるいは50kgのLPGボンベを使用していた。このLPGボンベと燃焼器具はカシュガルまたはタシュクルガンで入手可能。また中国科学アカデミー氷河研究班はガソリン発電機まで設置して夜遅くまで点灯していた。ガソリンはカラコルム・ハイウェー沿いのガソリン・スタンドで1リットル2.5元程度で容易に入手ができます。残念ながら我々に馴染みのLPGカートリッジは皆無です。幸いパキスタン経由で入山したので、パキスタンで再充填したカートリッジを持ち込みC1以上のキャンプで使用しました。上部キャンプの極端な低温時にもプロパン〈ブタンでは駄目ですよ)を再充填したカートリッジは使用できた。

6.凍傷と病院

自分たちの不注意で軽いとはいえ手足の指に凍傷を負った。カシュガルに下山後、診断手当てのできる病院を探すのに苦労しました。結論として凍傷の診察、手当てが出来るのはカシュガルの郊外にある中国軍関係の「12病院」(病院の名称)だけです。診察の結果、この病院で研究したといわれる速乾性の液体塗り薬を処方してくれた。我々外国人の場合、事前に山岳協会からでも診察方お願いしてもらう方が良策でしょう。緊急を要する重症の凍傷や低体温症にも、この「12病院」の他は頼れる施設はないようだ。

7.登山協会と登山証明書

登山申請は「中国登山協会」か「中国新彊登山協会」に直接申請し登山許可書を発行してもらいます。下山後ウルムチを訪問した際に「中国新彊登山協会」のヌル・ムハマット・タシ氏に会い、次のことを再確認しました。ムスターグ・アタの場合、登山隊の入山が決まると「中国新彊登山協会」傘下の「喀什地区登山協会」がその隊の登山に関する諸手配を請け負うことになる。そのため一人のリエゾン・オフイサーがわが隊に派遣されてきました。具体的にはタシュクルガンで中国人国手続き時からこのリエゾン・オフイサーが立会い、カシュガルに下山するまで一緒でした。リエゾン・オフイサーはBCに終始滞在していたがテント食事など一切面倒をみる必要なし。

ついでに山岳協会関係の費用を記すと、登山料は1090米ドル、リエゾン・オフイサー費用は日当、食事代を含んで1日1人27米ドル、その他に装備費・保険料として280米ドルでした。

粋なことに「中国新彊登山協会」では登頂に成功した人には要求があれば立派な登山証明書を無料で発行してくれます。これは、かなり良い記念になります。

8.米国同時多発テロ事件の影響

中国新彊ウイグル自治区ではムスリムであるパキスタン人の入国申請に対し非常に神経質であった。9月11日以前にパキスタン政府発行のパスポート(訪問先が中国だけに限定のパスポートも含めて)では中国側は受け付けず、事件後発行のパスポート所持者でないとビザ申請は受け付けない。われわれ日本人登山者とパキスタン人が合同で登山隊を結成してムスターグ・アタに挑戦するということで、ハイポーターを合同登山隊の隊員として申請することによってビザは発行された。ハイポーターとして日本人に同行し、出稼ぎのために中国に入国することは許されないようだ。

私自身のパスポートには過去6年間毎年パキスタンに入国していると共にアラブ諸国を毎年何カ国か訪問しでいるスタンプが押してあった。そのためか中国に入国の際に入国管理官にパスポートの写真と顔を何度も見比べられ、挙げ句は係官がパスポートを持って別室に行ってしまった。上司に話しブラックリストでも調べていたのでしょう。やがて戻ってきて小生の顔を再度ジロジロ見ながら入国OKのスタンプを押した。新彊ウイグル自治区では独立運動も盛んなようで中国政府はかなり神経過敏になっていることを実感した。

9.高所願応と歩き方のノーハウ

「口すほめ呼吸」:この10年かけて習得に努力してきた口すぼめ呼吸と高所での歩行のコツについて述べておきます。体がまだ高度に十分順応していない間は、出来るだけゆっくりと歩く。そして出来るだけ時間をかけて目的地に着くよう常に心がける。途中で小休憩をとるのは結構ですが腰を下ろしてどっかりと休むようなことはしない。休憩中もストレッチをして心臓への血液の還流を少しでも多くしたまま保ち、心臓の鼓動を速めたまま体が冷えないように心がける。目的地に到着するまでにヘモグロビンが少しでも多く血液内に増えるよう時間を費やすべく配慮する。このように歩行中も休憩中も極力口すぼめ呼吸を繰り返す。傾斜面は勿論どんな急斜面でも口すぼめ呼吸のタイミングと歩幅そして歩速がぴったり合うと不思議なほどに足取りが軽くなり、無限に歩けけるような境地になります。その瞬間なにか極意を得たような感覚になりますので平素のハイキングや山行でとことんトライしておきたいものです。一般的に最終キャンプからアタックに出るとき、特に高低差が大きく距離の長い場合に、途中で酸欠のために頭が痛くなるなど高所の影響がでるとそれ以上登るのは危険です。そのようにならないために天候など環境が許せばできるだけゆっくりと登高したいものです。今回の場合を例にとると、我々と同じ朝に20人程が登頂のためC3から頂上に向かいました。私よりはるかに若い人たちばかりでしたが、かなりの早さでスキーをはいてゼーゼー呼吸をしながら歩いていました。恐らく公募隊の人たちで日本の登山医学界で普及に努めている口すほめ呼吸を知らないかマスターしていないのでしょう。大半の人が高所障害を克服できずに脱落し、スイス人2人の他に我々だけが頂上に逢することができたことはこの方法が適していたことを実証していると思います。

スポーツクラブで特訓をし、ヨガや居合で深呼吸を心得たつもりでも、山登りに簡単に応用できるものではありません。急な登りの山道を何時間も歩いている間、常に深呼吸しながら歩くには日常生活の中でも意識的に訓練しないと山に入って即刻できるものではありません。

「ダブルストック」:また山行でストックをオジン、オバンの「転ばぬ先の杖」ではなく、「山岳登攀の道具」として活かすには出来る限り使いこむことです。四足動物の四肢として無意識に使えるようになるよう心得て使用することです。足の疲れが半減しますので、それだけ無理なく歩けます。特に中高年者にとって下りは数倍楽になります。これも簡単にはマスター出来ないのでハイキングなどの山行でもダブルストックを必ず活用しておきたいものです。

「水分とカロリー補給」:30分程歩いて一瞬の休憩ペース。その度にテルモスの湯を一口飲み、また2度に1度はビスケットやアメを口にした。C2〜C3間とアタックの途中ではトライアイスロン競技選手に好評の「カーポ・ショツツ」50g(140cal)を2度に1度は摂取し、カロリー補給につとめた。空腹感もなく、シヤリバテを防げた。少しの湯でビスケットなど固形物を飲み込むことは難しいが、この度初めて使用したカーボ・ショッツはゼリー状のため飲み込みやすく体力キープに役立った。頂上でも、下山路でも、C3に帰着後も喫食した。4種類の味付けがあるが、いずれも悪条件の中での摂取しやすい流動食であった。

我々はハイポーターがほしかったのでパキスタン側から彼らと一緒に入山しましたが、成田を朝に出発して北京から国内線でウルムチ経由カシュガルまで乗り継ぎ、車を利用すればその日の内にキャラバンの出発地点シバスに着きます。パミール高原や崑崙の山々も近くなったものです。

登山期間  02年7月5日〜7月30日
ただし、パキスタンから中国人りしたのと下山後にカシュガルで4泊休養、その後カシュガルからトルハン経由ウルムチまで車で天山南路を旅し、シルクロードの往時を偲ぶなど時間を費やし、成田発着6月28日〜8月13日(47日間)となりました。

登山隊名 2002 日本パキスタン合同ムスターグ・アタ登山隊
隊 長  南井英弘(66歳10ケ月)
副隊長  池谷健氏(JAC、上智大山岳部OB,64歳9ケ月)
隊 員  アリ・ムサ氏(G2、ブロードピーク、ムスターグ・アタは本年5月登頂)
     アカラム氏(ラカポシを途中まで)
コック  イッサ(この5年間私に同行の料理上手)
ガイド  アイリ氏(喀什地区登山協会)

◆編集者(尾崎 進・補稿)
〈1)パミールの盟主、ムスターグ・アタ(7546m)は新彊地区の“氷山の父”と呼ばれている。1894年からスェン・ヘデインは4回もこの登頂を試みている。いずれも6000m〜6500mで敗退した。その後は1947年エリツク・シプトンがこの山を狙っている。7300mで登項を断念した“未踏の山河”の一文である。高度6250m位の地点に第2キャンプを設け、翌8月13日、頂上に向かった。天気は快晴だったものの、風が強くひどく寒かった上、ティルマンが高山病で調子悪く、まもなくガルツェンも頭痛を訴えた。午後2時半、7300m位の地点で斜面はほぼ平らになり、頂上の端に達したと思われたが、それからが長く行けども行けども最高点に達しなかった。初登頂は1956年7月31日、ソヴェト中共合同隊(中国側史占春隊長)による“31人の集団登頂”である。片山全平氏(昭和25年文卒・会員No.191)著『ヒマラヤ取材記』“中国登山史”に詳しい。
(2)本稿南井英弘氏(昭和10年9月20日生)は『今日本で5本の指に入る長老?登山家である。』日本ヒマラ協会(ヒマラヤNo.368)

高齢者登頂リスト(7000m以上の峰・50歳以上)(2001年12月31日現在)―山森欣一調ベ―
1.内田 敏子ハンテグリ7010m69歳
2.平田 恒雄チョーオユー8201m65歳
3.山本 俊雄チョモランマ8848m63歳
7.渡逢 玉枝ムスターグ・アタ7546m62歳
10.田部井 淳子ムスターグ・アタ7546m61歳
2002年5月15日に渡逢玉枝氏(63歳)がエベレストの女性最高齢、10月1日に内田敏子氏(71歳)がチョオユー(8000m峰)の世界最高齢を記録されている。近刊 田部井淳子さんの“山を楽しむ”−パミール高原夏−の一節。

「Are you ready?」というハイポーターに「Yes,We are old lady」と62歳と67歳の女3人は2001年8月12日ムスターグ・アタの頂上に立った。今や8000m峰も“老若男女”のものである。

『関学山岳会会報Vol.17』より転載

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