会員の海外登山活動記録

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

南井英弘

2年前にムスターグアタ(7546m)を無酸素で登り、特に息切れもなく登頂できた経験から八千メートル峰も夢ではないと意欲が湧いた。

シシャパンマに決めるまでは、通いなれているカラコルムの一峰、昨年もその鋭鋒を目前に見たガッシャーブルム2峰(8035m)を第一候補とした。一昨年末から在イスラマバードのニッパトラベルを通じて登山許可を取った隊に一人分をシェアーしてもらえないかと打診していたが適当な隊が見つからなかった。また、丁度30年前にゴーキョから見た印象深い白雪に覆われたチョー・オユーも第二候補としたが秋の公募登山隊は見つからなかった。

この7年間連続してカラコルム、ヒンズークシュ、崑崙に関西学院大山岳会や日本山岳会(以下:JAC)の仲間たちと共にリーダーとして出かけていた。昨年のバルトロ氷河からゴンドコロ峠を越える際に隊員の一名は高度の影響で瀕死の重傷に陥り隊長の責任を痛感させられ、次回は単独か或いは一隊員として気軽にヒマラヤ登山を満喫したいと考えるようになった。この様なことからJACの理事仲間である大蔵喜福氏が隊長を務めるアドベンチャーガイズ社(以下AG社)主催のシシャパンマ中央峰(8008m)商業公募登山隊に参加を申し込んだ。

結果的には初見の巨峰を登頂し、かつ未知のチベットの山々を見ることができ大きな収穫となった。

参加者は隊長に大蔵喜福隊長をいただき、ほかにガイドの近藤明氏と成田空港で始めて顔合わせをするクライアント6名、計8名の構成メンバーである。うち2名は既に8201mのチョー・オユーにも登頂しており、他の3名もそれぞれヒマラヤなどの高峰を登っている猛者ばかりである。シシャパンマとはチベット語で“厳しい天候の山、生き物も死に絶え、植物もない荒涼とした不毛に地”の意である。

従来、この山はインド・ネパール側の名称でゴザインタン(聖者の居所)と呼ばれていたが、現在はシシャパンマと国際的にも呼ばれている。中国・チベット自治区ニエーラム県にあり、チョモランマの西北約120kmに位置し、地球上第14番目の高峰である。ネパール側から見れば、首都カトマンズの北東90km、ネパールとの国境から北に位置し、カトマンズ近郊の高所から遠望することができると聞いている。

ヒマラヤン・ジャイアンツ14座の中で、登頂されたのは一番遅く、1964年5月、中国隊によって初登頂された。その後、あまりにも足場が悪いためか、今年までに201人しか登頂していない。

主峰は8027mであるが、我々は中央峰(8008m)を目指した。主峰は中央峰から400m程南に位置し、その間は雪崩事故が多くて敬遠され、国際的にも中央峰に達したことをもって登頂とみなす風潮に落着いている。

アプローチ

【9月1日】成田発⇒バンコック泊。

【9月2日】バンコック⇒カトマンズ泊。ネパールでは、昨日イラクで人質に囚われていたネパール人12名が政府の救出が遅れたため全員が殺害されたことで民衆が怒り、騒動が起きていた。そのため外出禁止令がだされ、空港から宿(Royal Singi Hotel)へは「Tourist Only」とフロント・ガラスに張ったワゴンに乗り、車はおろか人の気配のまったく無い不気味な市街を通り抜ける。

【9月3日】外出禁止令は布かれていたが、ホテルから100m程にあるシェルパ達の庭に駆け込み、登山用具の点検、梱包を見守る。

【9月4日】カトマンズ⇒ラサ。シェルパ達は後日カトマンズから陸路でコダリに移動し、ザンムーからチベットに入り、チベット高原に一気に上るルートをとるが、我々日本人一行はカトマンズから空路でチベットのラサに入り、を兼ねながらチベット高原を西に約1000kmをドライブしてBC入りする方法を採る。わずか1時間ほどのフライトであるが、途中、左にエベレスト、右にカンチェンジュンガ、ジャヌーを間近から見るなどその景観は圧巻である。ラサではチベット山岳協会が準備してくれたHimalayan Hotel(各部屋に立派な酸素発生装置と酸素マスクが常備)泊。ラサの標高は3650mといわれているがその高度の影響は隊員の誰も受けておらず、山岳協会が経営するレストランでは次々に出てくる10皿以上の料理をたちまち食べ尽くす。これからTBC(Transportation Base Camp=輸送トラック基地)まで、そして登山活動終了後のTBCからチベット高原のがたがた路沿いの小さな食堂、カトマンズへ戻る道中の食堂ではいずれも豊富な野菜を実においしく食べ続けた。車窓から緑の野菜畑など一つも見かけなかったが、野菜を潤沢に食べられたことは不思議に思った。中国ならではの食文化の影響だろうか。

【9月5日】ラサ郊外にあるガンデン寺見学。ガンデン寺横の4450mの頂までハイキング。午後ポタラ宮前までウオーキング。

【9月6日】トヨタの4駆2台に分乗して360kmのがたがた路をシガッツェ(3800m)に移動。途中、地熱発電所脇を通るあたりからニャンチェンタンラ山脈の雪をいただいた白い山々が近くにせまり、またショグラ峠(5300m)やドングラ峠(4800m)を越えて、タドカでヤルツァンポー河を渡り、河に沿って西進。シガッツェ着。ホテル・マナサロワール泊。

【9月7日】シガッツェ滞在。但しリケゼ・テレコム・ホテルに移動。タシルンポ寺を見学かたがたウオーキング。

【9月8日】早朝から310kmのがたがた路をティンリー(4300m)に移動。カツオーラ峠(5200m)の「チョモランマ自然保護国立公園」と書かれた大きな横断幕が目を引く。ティンリーに近づいたころ「左、チョモランマBC」の道標があり、ティンリーの数百メートル手前で「左、チョー・オユーBC」の道標がある。チョモランマ、チョー・オユーはガスの中でその姿を見ることは出来ない。隊商が泊まるような宿、Everest View Hotelで仙台からのチョー・オユー登山隊と同宿する。

【9月9日】快晴の朝。宿から200メートルばかり昨日の道路へ戻ると素晴らしい景観が出迎えてくれる。チベット高原の南に左からチョモランマ、ギャチュンカン、ゴジュンバカン、チョー・オユー、チョーアウイ、チョラサンなど、ヒマラヤの巨峰が朝日に輝いている。朝食後、この景観を楽しみながら近くの4600m山頂までハイキングを行う。午後、車で2kmほど西に最近開発されたタムサ温泉に出かける。浴槽は露天と屋内の両方あり、鉄分を含んだ自噴の温泉で湯量も豊富で、他に客人も無くゆっくりと寛ぐことができる。

【9月10日】早朝に宿を出て、一路TBCに向かう。途中で野生の鹿と野生のロバが我々の車と並行し競争するように全力で走っていたのが印象的だった。がたがた街道の右にとてつもなく大きい湖が見えたあたりから車は南に進み、10:45チベット山岳協会駐在員用テントと先着した東欧隊のテントが張られているTBC(標高5000mと記した大きな標石あり)に到着する。ラサから1000kmにおよぶチベット高原のドライブの旅は終わった。陸路から先行していたシェルパ達も元気にしており、さっそくテントの設営。これからアタックまでは3人用テントを1人で使うことになる。また、アタック体制に入るまで隊から貸与の超立派な寝袋が用意され、毎朝氷点下を記録するABCテント内でも寒さを感じることなく快適だった。
午後には裏山約100メートルにを兼ねウオーキング。頂上で先行の東欧の連中と写真を撮りあうなど談笑を楽しむ。15:00頃からガスが消えシシャパンマが次第に全容を現わす。かなりの鋭鋒である。登攀ルートの北東稜は雪(氷)と岩のミックスでナイフリッジが急傾斜で突き上げている。手強く見えるが、過去に先人が登っているので登れるに違いないと自分に言い聞かせる。

【9月11日】夜半から雪、明け方には5〜7センチの積雪あり。本日から北京時間があまりにも現地の時間にそぐわない為ネパール時間を採用する。6:15にガイドとして同行している近藤氏が各テントを回り、パルス・オキシメーターで全員の動脈血酸素飽和度と心拍数値(参照:頁末の「Spo2・心拍数及び酸素使用表」)を記録していく。6:30キッチン・ボーイが各テントを回り「お早うございます。ティーの用意が出来ました。砂糖は何杯いれますか?」と皆を起こして行く。テントの中で紅茶を飲み終わった頃に、キッチン・ボーイが各人のテントの前に洗面器に暖かいお湯を一杯に注いで回る。1時間後に「朝食の準備が出来ました」の合図で、テーブルと椅子スタイルの大きな食堂テントで粥から始まる日本食を主体とした食事を皆で食べる。このような生活がアタック時を除いて登山終了まで続けられた。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

午前中に川の渡渉地点を探し流れの浅いところに石を投げ込み石伝いに渡川出来るように工作する。その後、ウオーキング。午後、小雪と氷雨が降りテントに篭もる以外に所在なし。本日から利尿促進のため全員ダイアモックスを半錠づつ服用する。明日のデポ地への移動は、隊荷運搬用のヤクは手配ができず1日延期となる。

【9月12日】快晴。早朝テントから眺めるシシャパンマやそれに連なる山々の山麓まで新雪がかなり降ったようで白一色となる。明日めざすデポ地近くまでウオーキングに出かけ、5450m地点で引き返す。往復で8時間を要した。明日の道のりはかなり長いようだ。ただし、周辺全くの不毛の地ではあるが注意して観ると時期遅れの可憐なブルーポピーが結構咲いていて心が和む。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

【9月13日】快晴。TBC→中間のデポ地。8:00過ぎに出発し、ナゴドラ川を石の上など跳びながら渡り、昨日たどった左岸をトレースに沿って登り6時間余で予定のデポ地に到着。荷揚げの都合で食堂用テントに8名で泊まることになる。夕食後テントを出るとシシャパンマの右奥の方向から連続して稲妻の閃光を見る。モンスーン明けの兆候であってほしいと祈る。ヤク34頭に荷を積み、全ての隊荷を運び入れた。

【9月14日】快晴。中間デポ地→ABC。ヤクに荷を積んで8:00前に出発。10:30ヤポカンチャロ氷河舌端部より2km程上部の左岸モレーンの少し窪んだ台地にABC(5700m)を設営。テントサイトから数メートル離れたところに50センチ程のトイレ穴を掘り、足場を大きな石で固めた。その上に1メートル四方、高さが2メートルのトイレ専用テントを張った。先着のヨーロッパ系登山隊の大小テント約50張りあり。道中で小型のカモシカのような動物を数頭見かけ、ABC近くでは雷鳥より少し太った大きな鳥が10羽程群れているのを見かける。この鳥はその後毎朝、プヨプヨと鳴き声をあげながらABC周辺のわずかに見られる枯れ草の地に飛来してきた。氷河舌端部の表面はいくつかの大きな氷河湖になっているが、それより上部は見事な氷のセラックが林立して重なり、延々数kmも立ち並んでいる。ヒマラヤ、カラコルム、ヒンズークシュ、崑崙で大きな氷河を見てきたが、このヤポカンチャロ氷河の整然と並んだ氷の三角錐の幅と奥行きには圧倒される。下部の数kmにわたり三角錐の高さが20メートルを越えているものも少なくない。上部(セラック帯の起点あたり)でもそれぞれの高さは10メートル位ある。このセラック地帯は観光客にとっても一見の価値は十分にありそうだ。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

【9月15日】休養日。全員で荷揚げされた食料の整理を行い、食堂テントの壁際には豊富な珍味類、お茶類、インスタントラーメンなどが並べられ、自由に喫食できるようになっている。ソーラー発電を利用して、情報を取るべく高いアンテナも設置され、その後上部で活動するシェルパたちとの交信には役立った。残念ながら持参した衛星電話は何故か機能しなかった。AG社への連絡は隣接してテントを張っているイタリア隊から衛星電話を借用した。通話料は1分、US$3.−で精算した。しかし、ソーラー発電により食堂テントには電灯がともされ明るく快適になる。登山活動を撮っているビデオ用のバッテリーなどの充填にも使用し、その後は数日毎に撮影したビデオ映写会も行われた。

【9月16日】快晴から小雪。シェルパはデポ地へ荷揚げ。我々はC1方面に偵察に出かけ、3時間ほど歩いた5800m地点で引き返す。はるか遠方の氷河上にトレースと人影が見えた。

【9月17日】快晴、のち少し雲。シェルパたちは荷揚げ。10時間かけてC1を往復。隊員たちは酸素マスクの使用方法の講習会、個人装備の点検とユマール、ビレーロープの安全な使用方法について実習訓練。豊富な食材の中から、アタック5日間の行動食として各自の嗜好に合わせてアメやチョコレートなど嗜好品を選択する。その夜は全員が睡眠時に酸素マスクを着けテストとその感覚に慣れる為、着装したまま就寝した。ただし、酸素シリンダーには繋がれてはいない。

【9月18日】晴。頂上稜線はガスの中。今日は結婚39周年、ワイフもWorld Senior Tennis Championshipに出かけ、今ごろPhiladelphiaで頑張っていることだろう。こちらも意気込んで裏山にウオーキングに出かけたが、かなり咳き込み仲間より先にテントに戻る。アタックは荷揚げ距離が長いこと、上部の天気が良くないのでシェルパの荷揚げが遅れ気味、シェルパたちにも休みを与えたいので更に延期したいと隊長から申し出がある。

【9月19日】8時から安全祈祷のプジャがテントサイトの10メートル程上部で実施される。経典や仏像の書かれた旗をびっしりと付けたタルチョのロープ数本がテントサイトの上に張り巡らされ、そして大きな石を積み重ねて祭壇をつくり、ピッケル、ウイスキー、果物、菓子などの供物を供え、香草を焚き、サーダーが読経。そして最後に全員がお米を上空に投げ、また、小麦粉も上空にまいて、手に付いた小麦粉を互いに顔に擦り合って安全を祈願する。ABCの高度には完全に順応し夜中にも小便が7〜8回出るので本日からダイアモックスの服用は中断する。

【9月20日】晴れから小雪。昨日のワイフの誕生日に続いて本日は69歳の誕生日を迎えた。朝、テントから顔を出すと仲間から「誕生日、おめでとう」とお祝いを受ける。8000mのヒマラヤの山ふところで誕生日を迎えることができるとはなんと贅沢なことか。シェルパ7名はABCからC1を経てC2に荷揚げしC2泊。コックの2名も大きい荷物を担いでデポ地点まで荷揚げに参加。隊員はのためにハイキング。2時間歩いて6000m地点へ。この荒涼とした高地で、わずかに数センチしか成長しない草は花と葉と茎が地面の色と同じように薄茶色を呈しているのを見つけ、辛うじて生きる生命力に脱帽する。対面の氷河の上にC1を確認し引き返す。夕食は「穴子」の炊き込みご飯、蜆汁、青菜のおひたし、ナスビあえ、海藻サラダ、果物ほか。食後、直径30センチをこえるBirthday Cakeがテーブルに運び込まれた。しかもケーキの上には「Happy Birthday H.Minamii‘04.9.20」と書かれている。コック長は白いカタ(ラマ教ではお祝いの祝福や旅の幸運を祈念する時に使うショールのような長い布)を私の首に掛けて祝福してくれる。みなさんから“Happy Birthday”を合唱してもらい古希の祝いを受ける。ケーキの1/3を隊員がご馳走になり、1/3をサーダーとコック達(シェルパは全員荷上げのためC2泊で不在)へ。そして隣接のイタリア隊にもお裾分けをする。20:30食堂テントを出ると自分のテントの上には薄っすらと雪が積もっている。

【9月21日】小雪が降り続き、朝までにテントの上やテントサイトには数センチの積雪がある。昼間は曇り。夕刻はシシャパンマの頂上が見える。 ガイドとして同行している近藤氏が東京に電話したところ、エベレスト周辺はこの1週間は晴れ、ただし後半は少し湿度が高くなるとの天気予報を得る。 メールランナーとしてコックのクリシュナが下山時のヤクの手配のためTBCに駆け下り、夕方までには戻ってくる。彼らのスピードは想像も出来ないほど速い。 大蔵隊長夫人より差し入れの「うなぎ」の夕食の後で、近藤氏の49歳の誕生日を祝う。2日連続で特大のおいしいケーキにありつく。

【9月22日】夜通し大風が吹きテントを揺さぶる。定期交信で、降雪と強風でC2に入ったシェルパは2日間まったく動いていないこと知る。因みに荷揚げの共同装備は以下の通り。ただし、悪天候などのため荷揚げが遅れ割愛される登攀用具も出てきそうだ。酸素シリンダー:41本。ロング・スノーバー:40本。ショート・スノーバー:60本。スクリュー・ハーケン:40。カラビナ:60。ロック・ハーケン:20。ガモフ・バック:1。EPI大型ストーブ:12台。ガス・カートリッジ:80。上部テント:14張り。そして隊員とシェルパ用の食料。

アタック

悪天候と荷揚げ作業の遅れのために予定より4日遅れのアタック開始となる。

【9月23日】ABC→デポ地。昨夕食後から晴れ、夜半から快晴。風が強く気温が下がって寒い。咳が出るので薬を飲み、サーダーの読経のもとデポ地に向けてABC(発)9:00。下が青氷のモレーン上に浮く大小の岩と石のミックスした足場に神経を集中しながら、ザック一杯の荷を背負って歩き、4時間後に目的地左岸のモレーン最上部近く(デポ地・5850m)に到着する。コックとキッチン・ボーイの3名も我々の個人装備の荷揚げに参加してくれる。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

道中、C1〜C2へのトレースも鮮明に確認され、活発な人の動きに心の昂ぶりを覚える。テントサイトを整地すると氷が融け出し、テントの下は石ころと水と氷だ。3人用のテントで3名が寝ることになり、ザックを含めて全ての荷物をテント外に出し狭いテントで就寝。
* 荷上げが遅れていたためアタックを優先し、その後もテントの居住性を犠牲にした。

【9月24日】快晴。デポ地(発)9:00→C1(着)15:00過ぎ。氷河上に見事に形成された下流の大きなセラック帯と上方の比較的小型のセラック帯の境目あたりを横断。見た目には非常に綺麗な現象だが、全てが青氷で出来た三角錐。ルートファインディングも難しくもすごい傾斜である。ここでスリップすればセラック帯の基部まで滑り落ち、そこには氷が融け冷たい水の流れが待ち受けている。まるでリュージュのコースに冷水が流れているようだ。スリップすれば間違いなく冷水の流れに落ち込み、数メートル流されてあっという間に大きく口を開いている真っ暗なクレバスの中に吸い込まれるであろう。非常に危険であり、アイゼンの爪を効かせ、2本のストックでバランスをとりながら慎重にセラック帯を横断する。直線距離にすれば数百メートルだが1時間半を要した。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

その後は広い氷壁の長い登り。右上方面から出ているデブリの末端部を直登。6000mと6300m近くに急傾斜の氷壁がある。青氷の斜面に先行したシェルパが取り付けたフィックス・ロープがある。ルート上に横断クレバスが数箇所あるが、自力で何とか渡れる幅である。青氷がむき出しになり、フィックス・ロープを張った上部を左に少し回りこんだプラトー状の広い雪面にC1(6300m)が設営される。口すぼめ呼吸でゆっくり歩くことができ呼吸の乱れはなく登れた。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

C1到着後、軽い下痢を覚えたが、幸い一度で終わった。同行者も全員元気にC1入りし、4人用テントで3名泊となる。北東稜末端の氷の崩壊ルートを避けるために、ルートはABCあたりから目視できる幅広い氷雪面の右寄りに近いところを登って行く。後ろを振り返るとセラックが整然と林立するヤポカンチャロ氷河は実にスペクタクルだ。

【9月25日】快晴。C1(発)9:30→C2(6700m)着13:30。今朝は出発から毎分1リッターの酸素を吸う。酸素シリンダー(旧ソ連が開発したチタン?製の軽量シリンダー)が満タンで4.7kg、調整器が1kgとして合計5.7kg。片荷にならないようにザックの真ん中に固定するので背中に硬い違和感がある。その上、テルモス、食料、薄型羽毛服も入れるのでザックは結構嵩張り重くなる。広々とした氷雪斜m面をひたすら登る。6500あたりの30度前後の急な氷壁を登りきると氷雪のステップがある。4つ目の氷壁を登りきり比較的フラットになった氷雪上にC2設営。荷揚げが遅れた関係で、6人用テントに隊員6名全員での泊りとなる。小便用に持参した1.25リッターのテルモスは混雑のあまりここでは使いようがない。ベース・キャンプ方面から見える前山ヤポカンチャロ・リ(7365m)の下部を回り込み、やっとウエスタン・クーム(シシャパンマ北面の壁とヤポカンチャロ・リに挟まれた圏谷)に入った。これから登る北東稜の稜線を見上げることが出来る。TBCやABCなど北から眺めた時、中央峰から弓形に弧を描き、ナイフリッジ状に切れ落ちていた北東稜は、西から見ても急傾斜の上に氷雪と岩峰のミックスが頂上まで続いているのが確認できる。先行している外国隊もいるはずだが北東稜へのトレースはどこにもない。二重レンズのゴーグルは酸素マスクから吐き出される呼気が影響する為か、二重になったレンズの間に水滴が付着して凍りつき前方がまったく見えなくなる。また、予備に持参したサングラスも登っている間や、横風が吹いている時には曇らないが、平坦なところでは前の人の靴も見えないほど呼気が氷滴になり閉口する。

【9月26日】快晴。C2(発)9:30→C3(7300m)着16:15。C2より上部には未だ荷揚げがされていないのでシェルパはかなりの重荷を背負って出発する。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

彼らと一緒にウエスタン・クームの最奥方向を目指し比較的平坦な雪面を歩き始める。隊員たちが6900m付近に達したときに彼らは、今までラッセルし、トレースをつけたウエスタン・クームのどん詰まりから右折れして北東稜めがけて急傾斜の氷雪壁(初登攀した中国隊の報告によれば平均斜度30度、最大42.5度と記されている)にルート工作を行っている。小休止後、隊員たちもこの急傾斜の雪面に取り付く。本日は酸素毎分1.5リッターで出発したが、この雪と氷、そして岩がミックスした急斜面の途中で毎分1リッターに切り替えさせられ、その後、稜線までの登りはかなり苦しいものとなる。北東稜の稜線に登りついたところにC3を設営。振り返るとC2方面やABC、TBCそしてチベット高原と雪を頂いた白い山々が遠く近くに無限に見えるが、のんびりと景観を楽しんでいることも出来ない。日没がせまり、今夜も6人用テントに6名が入る。明日の晴天を祈って寝袋に入る。夜半小便に起きるが、稜線の両側はともに切れ落ち、やむなくテント脇でするしかない。天の川をはじめ空には満天の星が輝いている。

【9月27日】未明1:00起床。出発3:45→11:30シシャパンマ中央峰(8008m)登頂→C3(着)14:30〜(発)15:00→C2(帰着)18:20。
昨夜、全員毎分0.5リッターの酸素を吸ってシュラフに入ったが熟眠した仲間はいないようだ。幸い今朝は風もなく、星空が無限に広がっている。暖かいお茶を飲み、多少の食べ物を腹に詰めて、テントの中でインナーシューズとプラブーツ、中綿入りのオーバーシュ−ズを履き、ユマール、8環、カラビナなどガジャ類2kgをつけたハーネスを腰にがっちりと取り付けてテントの外に出る。アイゼンを着けて出発準備を完了したところで、LEDのヘッドランプが突然消えてしまう。デポ地で電池を取り替え安心していたが困ったことになる。幸いにも隊長が予備の電池を持参しており緊急借用し出発する(反省事項参照)。鋭く切れ落ちたナイフリッジを力強く登る先導のシェルパの姿が漆黒の雪面にヘッドライトの光に照らしだされ、その姿が幻想的なシルエットとなり雪面に投影している。酸素は毎分2リッターを吸っているが、登るスピードが速く楽ではない。やがて東の空が白んでくる。北東稜の稜線から、東、北、西方面は何も遮るものはない。東方の太陽が昇る方向にエベレストと左にチョー・オユー。右にローツェ、マカルーといった8000m峰が並び、その右奥にカンチェンジュンガらしき大きな山塊も見ることができる。7700mを越えるあたりから、益々傾斜がきつくなり、積雪もさらに深くなる。目の前でシェルパ達は腰まで没する新雪のラッセルに苦戦しているが、私たちには何の手伝助けもできない。7800mあたりから岩峰にも苦闘しているが、彼らは嬉々として格闘しているように見える。このラッセルと氷の付いた岩場でシェルパたちが奮闘する様子を目前に見ることは感動的で忘れることの出来ない光景となった。凍りついた岩壁を登っている時、突然右足のアイゼン・バンドが緩んだ。足を動かせばアイゼンは岩壁から一気に落下するだろう。体には滑落防止用のスリング2本がフィックス・ロープに取り付けてあるが、凍りついた岩の上を滑り落ち、数メートル下のフィックス・ロープ末端の垂直に近い岩壁に宙吊りになるのは間違いない。幸い大蔵隊長が数メートル下から登ってきたので緊急事態を伝え、アイゼンを付けなおし、アイゼン・バンドを確実に締めなおしていただいた。その上左足のアイゼン・バンドも締めなおしてもらい事なきをえた(遠因は反省事項)。その後はルート工作で固定されたフィックス・ロープに沿って頂上を目指す。我々が頂上に近づいた頃から、頂上付近に南の方から薄いガスが風に吹かれて流れ視界を悪くする。しかし登頂寸前まで晴天で見渡す限り視界は広がり、ラッセルや岩場のルート工作で登攀が滞っている間に東のエベレスト方面、北のチベット高原と散在する雪を頂いた白い山々、西には地球から突き出すような沢山の高峰、マナスルなどを何度も眺めていた。参加した隊員がフィクス・ロープに安全確保用のスリングを掛けて順次シシャパンマ中央峰の頂に近づき、ピークが狭いため交代で頂上に立つ。

シシャパンマ中央峰(8008メートル)最高齢登頂記

残念ながらエベレスト近辺の巨峰やマナスル3山を除いてほとんど山座同定をすることは出来ない。風が薄っすらとしたガスを運んできて南方面はわずかに高い主峰への稜線が続いており、カトマンズ方面は確認できない。頂上では「やっと登ったか、とにかく登頂できて良かった。しっかりと気をゆるめずに下山しよう。」と冷静に考えていたぐらいで、嬉しい気持ちはあったが特別に感激などしていなかった。ゆっくりと休む間もなく写真を数枚とって下山にかかる。入れ替わりに後続していたスペイン隊と単独のスキーを担いだヨーロッパ系の男が頂上に立つ。登っている間はあまり曇らなかったゴーグルやサングラスは下山を始めると瞬時に曇ってしまう。登攀時にアイゼンの緩んだ岩場を懸垂下降で下る時にサングラスが完全に曇り、斜面と足場が全く見えなくなり、手探りの下降となって非常に危険であった。その後、急傾斜の稜線をフィックス・ロープに腕絡みで下降するときも足場と斜面が見えなくなり、精神的に非常な疲れを覚える。その後は雪盲覚悟でサングラスをはずしてC3まで下る。(注:酸素マスクを固定するのに額の上部あたりから鼻先にかけてバンドで固定しているために、その下にあるサングラスやゴーグルが曇って見えなくなっても簡単に外すわけにはいかない。過去に酸素マスクを着けるとゴーグルやサングラスが曇り困ったといった報告は聞いたことはなく、酸素マスクと私の顔の相性が悪かったのかもしれないが、今後は要注意)
C3で半時間ほど食事をとりながら休憩し、体力を回復させ急斜面をウエスタン・クームに向かって下る。ウエスタン・クームに降り立ってからは緩傾斜の雪面上に残された長いトレースをC2に向かって快い満足感と疲れにゆっくりと足を進める。皆が同じ調子で歩いていたのは同じような心境だったのだろう。テントの手前で最後の残照がウエスタン・クームの谷間全体と今日登ってきた北東稜、そして見覚えのある頂上付近の岩峰群を真っ赤に染める。隊員全員が寒い中に立ち尽くし、残照が消えゆくまで余韻を楽しみ、感激していた姿は忘れることが出来ない。初めて8000mの頂上に立ったこの記念すべき日は69歳と7日。我々は今秋の初登頂隊となった。

ここで一つ書いておきたいことは、先に記したように我々のあとから登頂してきたスペイン隊とスキーを担いだ単独の男はシェルパを連れずABCに先着しながらある戦略を執っていた。その戦術とは、他の登頂隊が来るのをABCで待ち、自身でラッセルやルート工作など全く行うことなく、他隊が工作した上部へのルートをたどり、他隊の横にテントを張り、他隊に続いて登れば登頂可能だという“ただ盗り”作戦の考え方だった。彼らは我々のシェルパが苦労して固定したフィックス・ロープを勝手に使い、100メートルほど下から様子を窺いながら切り開いたルートを辿り登って来たのである。

【9月28日】C2(発)9:30→デポ地(着)14:30〜(発)15:30→ABC(着)19:30。
荷下げも兼ねてシリンダーに残る酸素を吸いながら担いで下りる。比較的緩斜面を下っている時には曇らなかったサングラスは急な下降になると再び曇ってしまい足場に確信が持てない。特に青氷の氷壁下降でフィックス・ロープを腕がらみにして下降するとき足元が全く見えなくなり、ロープにぶら下がるような格好となり同行者に心配をかける。最後の難関、セラック帯の横断ではサングラスを外して足元を確認して安全通過を図ろうとしたが直射日光とセラックからの強烈な乱反射の光線に目が眩むようであり、雪盲にやられること間違いなしと判断して曇ったままのサングラスは外さなかった。ピッケルを駆使し、アイゼンで足場を確定させ一歩一歩ゆっくりと進むうちに、幸いにもサングラスの曇りは少なくなり、足元を確認しながらスリップすることもなく往路と同様に1時間半で危険なセラック帯を切り抜けデポ地にたどり着いた。明るいうちにABCまで帰り着けると予測していたが、意思に反し疲れが激しくスピードが上がらない。途中で先にABCに帰幕していたサーダーやシェルパたちの出迎えを受け、心づくしの温かいジュースを飲んで月明かりのABCに帰着したのは19:30になっていた。ABCに着くなり、テントサイトの月明かりの中にテーブルが用意され、缶ビールとソフトドリンク、熱々の雑煮と蕎麦が並べられていた。シェルパ頭のサーダー、ラッセルとルート工作、長期間の荷揚げに尽力してくれた7名のシェルパ、毎食おいしい料理を作ってくれたコックとキッチン・ボーイ全員が揃っている。隊長以下全員は背の荷を降ろす前に喜びがこみ上げ乾杯。互いに健闘をたたえ、お礼を述べあって隊員とシェルパ全員の登頂を祝福する。そして食堂テントに移動し、またもやできたての登頂祝いの大型ケーキをご馳走になる。隊員の日焼けした顔が全員登頂成功で益々明るく輝いている。ほっとすると共に、皆と一緒に登頂できて本当に良かったなと言った気持ちが湧いてきた。私の登山史上こんなに消耗し、厳しかった山行は初経験であった。励ましながら最後まで一緒に歩いてくれた同行者全員に心から感謝したい。

【9月29日】朝食後、祭壇の前で「全員登頂と無事下山のお礼」の儀式がサーダー読経の元に執り行われる。昼間は航空便で別送する個人装備の荷造りをする。夕方、一昨日我々に続いて登頂したスペイン隊からビアー・パーティーへの招待を受ける。日本人だけでなく、ラッセルとルート工作に尽力したシェルパ達全員も一緒に参加してほしいと嬉しい申し入れだ。ルート工作もせずに、我々の後方に続いていた連中もシェルパ達の大奮闘を見ながら、評価していたようだ。隊員、シェルパ全員で喜んで参加し、当夜ベース・キャンプにいた50人以上の山仲間たちとワインやシャンペン、生ハムなどのご馳走をいただきながら歓談することができ、素晴らしい思い出となる。

【9月30日】撤収の準備とテントサイトの清掃・片付け。テント内で氷点下7度、相変わらず寒い朝。入山時に積もった雪の一部は私のテントの日陰部に融けないままに残っている。夕方、明日の下山用のヤクが30頭ほどABCに到着する。

【10月1日】晴れのち曇り。撤収。ABC(発)7:50→TBC(着)13:10。
ABCを離れる時、シシャパンマは朝日に輝いていたが、後ろを振り返るといつしかガスに包まれていた。全員が申し合わせたように急ぎ足で歩きとおし、予想よりもあまりに早くTBC着。テントなど隊荷を積んだヤクやシェルパの到着を3時間以上も待つことになる。当日TBCにはチベット山岳協会の駐在員用テント1張とチベット人の食堂兼売店のテントが1張あるのみ。寒風が吹き始めたとき、山岳協会の駐在員から登頂の祝福を受けると共にテントに招き入れられて新鮮なリンゴをご馳走になる。一休みして協会のテントを辞し、隣接の食堂兼売店のテントを訪ねる。大きなテントの真ん中にヤクの乾燥糞を燃料にしたストーブが焚かれ、外より暖かい。主の婦人から温かいバター茶がだされ、薄い塩味の美味しいこと。冷えきった体が温まるのを感じる。3時間程、ヤクとシェルパたちの到着を待つ間に、激辛のチベット製即席ラーメン「今麦郎」とバター茶を茶碗に10杯ほどご馳走になる。8名全員が同じように飲み食いするので、婦人は大忙し。1メートルほどの筒にバターと塩などを入れ棒で混ぜ合わせたバター茶を数度も作り直してくれた。バター茶は何杯飲んでも1元(15円)。気の毒に思いその後到着した荷物の中から、常備している非常食や飴玉などをお礼の代わりとした。サーダーがチベット山岳協会駐在員に自然環境保護のため2000メートルのロープを含め持ち込んだ装備類は全てTBCまで持ち帰ったことを説明し、入山時にデポジットした大金を全額還してもらう。そしてテント生活最後の夜を迎えた。

【10月2日】TBC撤収(発)8:30→ザンムー(着)15:20。
早朝、テントから這い出るとシシャパンマと周辺の山々は快晴の空に聳え立っていたが、いよいよ撤収の頃には全てガスの中に姿を消していた。トラック1台に荷物と荷物番のシェルパ2名が上乗り。マイクロバスに日本人8名とサーダーと残りのシェルパたちが乗って思い出多いTBCを離れる。期待していたニエーラムの峠5200mからのシシャパンマ遠望はガスのかなたで残念ながら不可能だった。ニエーラムの街道沿いの食堂では野菜が多く、実に美味しい昼食を腹いっぱい食べる。そしてチベット高原から谷あいを一気に下り、緑多いザンムーに到着。ホテルのちょろちょろと滴り、しかもぬるま湯のシャワーで山での汗と垢を流し寛ぐ。ホテル正面のチベット料理店でシェルパ達も一緒にチベットでの最後の食事を摂る。野菜が豊富で肉類もおいしい。隊長いわく「10年前にはチベットでは食べられるものがないほど貧しかったのだが、今では日本の料理人顔負けの腕で豊富な食材を使い、味付けも素晴らしい」と。

【10月3日】ザンムー(中国、チベット自治区)→コダリ(ネパール)経由カトマンズ。
ザンムーは中国とネパールの国境の中国側の町。ザンムーのホテルの窓から外を見るとこの町並みは山の急斜面にへばりつくようにホテルや家が建てられている。家やホテルのカラフルなこと。そして谷間の上に氷河を頂いた峻峰が近かに見える。ヨーロッパ・アルプスの谷間の街にいるような錯覚に陥る。ザンムーのホテル(発)8:20。100メートル程歩いて中国からの出国と荷物類の通関手続き完了8:45。中国政府提供の車で10分ほど急坂を下り、ネパールとの国境手前の橋のたもとまで送ってもらう。中国〜ネパール国境の橋(橋の中央の白線が国境線を示す)を渡り、白線を跨いでネパールに入国9:00。コダリ(ネパール側の街)にてネパール入国手続き9:15〜10:15。カトマンズ着15:40。ラサにフライトする前の3日間、ネパールでは外出禁止令が出されており不気味なほど静かだったがカトマンズは車が渋滞し、人ごみで賑わう本来の姿に戻っている。

【10月4日】昼はサーダーの自宅に招待されシェルパを含めた全員で昼食をご馳走になる。夕食は隊員とサーダーと夫人、シェルパ全員、コック、キッチン・ボーイ、そして協力してくださった現地スタッフをチベット料理店に招待し、彼らの大活躍に敬意と感謝の意を表した。

【10月5日】日本大使館に神長善次特命全権大使(在オマーン大使時代から旧知)を大蔵喜福隊長(日本ネパール協会理事)と共に表敬訪問する。大使は僻地のドルポ地区を含めネパールをくまなく歩かれて、観光立国を目指す同国に具体的に多くの貴重な進言をされていることを知り嬉しかった。

【10月6日】カトマンズ(発)13:40。バンコック経由で翌7日、予定より30分以上も早く成田APに全員元気に帰国した。

反省点

(1)入山前のトレーニングでは今年に入り、特に3月末にリタイアーしてから毎日のように13.5〜16kgの荷物を担いで近郊ならびに82段の神社の階段とこれに続く公園の階段道を3〜5時間程度歩いた。徳本峠越え、富士山登山など含めて高峰登山のために脚力ばかりを鍛えていたが、ユマールや腕がらみで腕力を使うことが忘れられていた。脚力と共に腕力、握力も鍛えておく必要があった。

(2)毎朝、自宅で朝食後は動けないほど腹一杯食べたつもりだが、長期の高所登山には加齢と共に縮小している胃袋(従来5〜6杯の飯を食べたが、今では3杯程度で満腹)をもっと鍛え容量を大きくしておく必要性を痛感した。それと共にシャリバテを防ぐ意味で服とズボンのポケットに工夫をこらし、いつでも食べられる炭水化物系の食い物を入れ休憩ごとに食べるべきであった。同行の若い人達と同じ行動をとれば、彼らの半分しかカロリーを摂っていなければ先にばてるのは当然の結果といえよう。
ただし、毎食前、食後、そして食間に多量の水分を摂り、頻尿と思われるほど多量の排尿をしていたことは、現地での時に役立ったようだ。

(3)過去のヒマラヤ登山で唇が割れ、辛いものが食べられなくなった経験があったにも拘らず、今回も同じ轍を繰り返し、結果的に胃袋にも、体力にも悪影響を与えた。

(4)寒風の吹く道中、少し風邪気味になり、水鼻が出た。これは鼻からの呼吸を妨げ、本来の口すぼめ呼吸を不可能にした。特に酸素マスクを着用すると鼻をかむこともできず、勿論口すぼめ呼吸も出来ずに大失態だった。風を引かないようにするのが肝心だが、万一鼻風邪を患った時のために、鼻薬(鼻とおるなど)を携帯すべきだった。

(5)右手の親指、人差し指の先端と第1関節の内側にそれぞれ深いひび割れができてしまい、箸を持つときにも力が入らず、注意していないと激痛が走った。アタック中、凍りついた岩場でアイゼン・バンドが緩む失態を演じたのは、この指のひび割れに遠因があった。ヘッドランプの明かりでアイゼンを履き、右手の指が痛むので左手を使い十分に力をいれたつもりが、結果的にはしっかり締まっていなかったようだ。テントの外に置かれ、前日にも使ったアイゼン・バンドは凍りつき、その上、オーバーシューズはわざわざ誂えた防寒用の中綿入り。この3条件が重なり、アイゼン・バンドが確実には締まっていなかったと考えられる。
表面化したのはアイゼン・バンドの緩みであったが、カラビナやユマールの取り外し、ザイルを握るとき、ザックの紐を締めるときにも小さな傷にもかかわらず激痛が走り間接的な危険要因となった。栄養不足と脂肪不足で脂切れを起こすからと顔や指にクリームを刷り込んでいる隊員がいたが、これは正解であった。
また、歩き出してしばらくしてからアイゼン・バンドの締まり具合を確認すべき初歩的なチェックを忘れていたことも猛省させられた。

(6)LEDのランプは電池の消耗が少なく、山行には便利だが、このように突然に電池切れをするので注意する必要があると言われていた。デポ地出発の朝、電池を取り替え安心していた。しかしC3出発の朝には面倒だがもう一度念を入れて、夜道の生命線であるランプの電池交換を実施すべきだった。

公募隊に初参加して

リーダーとしてこの7年間、仲間と一緒にヒマラヤ詣でを続けてきた。スパンティーク、ムスターグ・アタなどでヨーロッパ勢を含む沢山の国際商業公募隊を見てきた。その殆んどが、主催者としてお客様をベース・キャンプまでお連れします。シェルパやハイポーターを雇いたい方には彼らを紹介します。また、ベース・キャンプでの生活は主催者が準備・保証し、ベース・キャンプより上のテントや食料も準備する。あとは自己責任で登山をして下山期日までにベース・キャンプに戻るようにといった契約が多く見られた。

この度のAG社の案内には、「参加者自身の技量だけでは登頂が難しい一般の登山愛好家を中心に、山岳ガイドが登頂のために必要な技術、経験の足りない部分をサポートしながら登頂を目指す公募隊です」と記されている。幸いなことに10余年前から人となりを互いに良く知っているJACの理事仲間、大蔵喜福氏(現在:JAC常任理事)が隊長を務めているので安心して気軽に参加した。

【1】今までの自分たちの手作り遠征隊では出発前の数ヶ月間は登山計画の精査、現地エージェントとシェルパ、ハイポーターや車の手配依頼などの連絡。食料品買い付け、共同装備の準備、金銭の交渉や送金手続きなど、山行きのまともなトレーニングなどが出来ない忙しい日が続いた。今回はそうした煩わしい事柄は一切なく、AG社から送られてくる登山計画書の指示に従ったのみである。旅券、写真、参加費、保険料の振り込みなどの手続き以外は送付された持参品リストに従って、出発3週間前に、ABC以後の高所で使用するプラブーツ、アイゼン、ピッケル、寝袋などをAG社に送った。あとの荷物は出発時に空港に持参したのみで遠征前の煩わしさからは完全に開放され出発できた。
高所登山の山仲間が脱落してしまい独りになった人、勤めを持つ人、多忙な人、現地に不案内な人、現地とのネゴが苦手な人には誠に好都合な企画であろう。

【2】ホテル宿泊は個室、テント使用は独り占有が原則。プライバシーが尊重される上に、お互いの体調の維持に好都合であった。特に長いテント生活ではお互いの個性やペースの違いから不快感を生ずることがあるが、イビキや夜中の小便も気遣うことはない。ホテルのTVを観るのも、風呂やシャワーも好きなときに自由に利用できた。
個人用テントのフライは内面がアルミ箔(?)のようなものでコーティングされており、強烈な直射日光を遮断し、昼間のテントの中でも外気温度とあまり変化がなかった。これは休養日や午睡に快適であり、ひいてはコンディションの保持に大きく貢献した。去年まで昼間のテントは暑くて入れず、ましてやその中で昼寝など考えも及ばなかった。
ABC到着時にテント・サイトにテントで覆われたトイレを設置した。平素は勿論、吹雪の日などにも排便が苦にならず、ひいては健康維持に寄与した。

【3】過去のヒマラヤ登山では食堂テント或いは自分のテントの中で地べたや氷の上にシートを敷いて座り込んで食事をしていた。この度は背の高い大きなテント2張りを並べて設営し、奥行き10数メートルの広い食堂用テントが設置されていた。テーブルと椅子式で、腰や膝に悪影響もなく、居心地の良いものであった。
常設のテーブルにはコーヒー、紅茶、緑茶、各種香辛料、お菓子、インスタント食品が置かれ、自由に飲み食いすることができた。その上、ソーラー発電によりテントの天井から吊るされた電灯が明るく輝いていた。長期遠征で必要な食事を、楽しく、ゆっくり食べる条件が揃っており、有難いことに毎食時、笑いに満ちた雰囲気で食事を摂ることができた。

【4】TBC、ABCに滞在中はAG社からの寝袋、マット、シーツが全員に貸与された。寝袋は沢山羽毛が入った上に、その中で足が組める幅広さがあり、背丈も長い。毎日、氷点下であったABCのテント内でも、寒さも感じずに疲労回復の原点である睡眠を十分に取ることができた。因みにこの寝袋はAG社のオーダーメード品である。

【5】キッチン・ボーイがお茶を注ぎに回る前に、同行したガイド役の近藤氏が各テントを巡回して、パルス・オキシメーターで全員の起床前の動脈血酸素飽和度と心拍に異常がないかチェック(*)していく。テントの中では隊員自身による計測とその数値申告があるまで、降雪や寒風吹きすさぶ日でも、彼はテントの外で震えながら立ったまま待っていた。人命にかかわることだけに忠実に健康管理を実施してくれた。目立たない仕事だが有難く感謝している。(*)夕食時も計測。
その後、間もなくキッチン・ボーイが「お茶の用意ができました」と各自のテントの前にお茶を注いで回りながら皆を起こしてくれるのである。
そして皆がお茶を飲み終わる頃、再びキッチン・ボーイがやって来て、アルミ洗面器に温かい湯を満たしていく。歯を磨き、顔を洗い、洗髪したり体を拭いたり、靴下などの洗濯もできた。私は洗面後、この温かいお湯の残りを用便後の洗浄に使用して快適だった。

【6】毎日3食の食事は日本食が中心のバラェティーに富んだ献立で、飽きたり、脂ものが胃にもたれたり、うんざりすることはなかった。朝は粥を主体に、高齢者や長期高所滞在で疲労してきた胃腸に配慮した食事であった。野菜が豊富で蛋白源も十分にあり栄養、ヴォリューム、消化だけではなく見た目にも食欲を催す盛り付けで毎食のように感嘆の声が出た。全て隊のネパール人コック達が料理してくれたもので今もって信じられない。大蔵隊長が10年以上もかけて、日本から料理専門家も同行して教育した成果である。材料の活かし方、味付け、盛り付けなどで手抜きが多くなった現在の平均的な日本の主婦よりも、うわ手をいくような印象を受けた。しかも一部日本製の調味料、食材は別としてほとんどの食材はネパールあるいはチベット産を使っていたのだから。

【7】今回採用された方法は、「私が金科玉条として信じていた従来型方法、即ち、6000m以上の高所で宿泊し到達高所に馴染んだ後、いったんABCに下り、十分な休養をとってから本格的なアタック態勢に入る」といった私が熟知・実行していた従来からの方法は採用されていない。

カトマンズから車でチベット高原のTBCまで2日で入ることができるが、今回はカトマンズで2泊したのち、の為、チベットのラサに飛行機で移動し3650mの地に降り立ち、そこからチベット高原のがたがた路を約1000km西進。その間徐々に高度を上げ、更に各宿泊地で近辺の高所に登って体を順次慣らしていく方法をとった。11日目にTBCの標高5000mに到着した時は誰一人として高所障害を起こしていなかった。5700mのABCで、裏山の6000mに2度登った。6300mのC1まではABCで充分順応した体で登り、C1で宿泊する。翌日、6700mのC2への出発時から毎分1リッターの酸素を使用する。睡眠時は0.5リッター。C3(7300m)からのアタック時は満タンのシリンダーに取替え毎分2リッターの割合で酸素を吸い登頂し、頂上でシェルパが担ぎ上げた満タンの酸素シリンダーと再び交換しC2まで下る。というタクテックスが採用された。
私は、当初この方法はに必要な登下降を繰り返すシステムを手抜きしているのではないか、との印象を受けた。
今までのヒマラヤ通いに慣れたといえ酸素が平地の半分以下のABCより上部の滞在では体力が低下する一方で、本格的な体力回復は期待できない。登降行を繰り返す従来方法では私のような高齢者は疲れが蓄積して行くであろう。従って長居するよりも条件が整えば早くアタックに入った方が賢明な方法なのだ。6000m以上の順応は酸素を吸うことでカバーしていく。このように長期滞在の短縮、疲労の蓄積排除といった観点から、6000m前後からの酸素利用は経験から割り出され生理的にも賢明な作戦だと感心した。この方法の採用により高齢者は高峰を目指すことが益々可能になろう。
従来の海外登山形式しか考えていなかった私にとって、以上のような実体験を通して新しい可能性を秘めた高所登山のジャンルが開けたと喜んでいる。参考までに記すと、シェルパ達は8000m近い稜線上の深雪のラッセルにも酸素は使用せずに平地と同じように行動していた。

大蔵喜福隊長は『エベレストのぼらせます中高年のわがまま登山術』(‘00年5月・小学館刊)及び『山がくれた百のよろこび』(‘04年4月・山と渓谷社刊)のなかで、そこには“愉快な仲間とお笑い”と題して「登らせる喜びが登山の最高の面白さであるということを知ったのだ」と著している。このように高所に希望者を登らせることに興味をもった隊長が、まさに著書のとおり理想とするチームを作り上げた。顔合わせの当初から「2隊に分けたりせずに全員で一緒に登頂するのだ」と落ちこぼれを防ぐためにも、たびたび隊員を啓蒙しリードしていたことを付記します。商業公募登山隊へ参加をすれば、万事人任せとなり、大切な自らの山の研究や勉強は疎かになってしまう可能性があると気になるが、人によって価値観の違いがあろう。総額300万円強は、一昨年仲間2人でムスターグ・アタに登頂し、天山南路をカシュガルからウルムチまで運転手、案内人を含めて4輪駆動車をチャーターした費用150万円に比較して、煩わしい入山までの準備段階で時間を消費することは全くなく、トレーニングと登山に集中し、その結果八千メートル峰に登頂できたことを考慮すれば納得のいくものであった。

参加者
隊 長大蔵 喜福(1951年生)
ガイド近藤 明(1955年生)
隊 員南井 英弘(1935年9月20日生)
荒山 孝郎(1935年10月4日生)
政木 通弘(1938年生)
山梨 柾巳(1941年生)
斉藤 祐一(1947年生)
森安 東光(1959年生)
SardarAng Phurpa Sherpa(1947年生)
Exp.Sherpa※Chhewang Nima(1967年生)
Ngima Nuru (1981年生)
Pasang Kidar (1979年生)
Dawa Chiri(1966年生)
Pemba Geljen(1969年生)
Lhakpa Tshering (1983年生)
Pemba Geljen(1972年生)
CookDawa Tshery Shrpa(1975年生)
Krishna Bahadur Tamang(1970年生)
Kitchen BoyAng Chhiri Sherpa(1978年生)
※Chhewang Nimaは、多くの八千m峰に登っており、エベレストだけでも11回登頂しているクライミング・シェルパである。今回、頂上直下の急な雪面でのラッセルを見て最強のシェルパと納得した。

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