|
マナスル日記 南井英弘 日本山岳会創立100周年マナスル登山隊募集の締切日が直前に迫っていた。隊長は奇しくも昨年シシャパンマ中央峰登頂でご一緒した大蔵喜福氏が務められている。大蔵氏とは隊員締め切り2日前にある山の会合で会談したあと、今回のマナスル隊の隊員募集状況と隊員をどのようにして選考したのか興味を持っていたので彼に訊ねた。私は、当然既に参加希望者が多く全ては済んでいるものと思っていた。しかし彼から返ってきたことは、まだ隊員募集に達せず空き席があると聞き驚いた。空き席があると知って放っておくわけにはいかなくなった。マナスルは学生時代からの憧れの山だ。そこで大蔵氏には「シシャパンマ中央峰の下山時に左足親指の爪が圧迫されたのか、剥がれかけたままで一向に回復しない。とに角、明日、JAC事務局に参加の申し込みをしておくが、爪が回復せず登山靴が履けないようだとキャンセルする」旨を話し了解を取り付けた。こんなことでシシャパンマから下山1ヶ月余でリハビリをしながら次なる目標に始動しだした。 昨年10月7日に帰国してから月末までは休養に努め、リハビリを兼ねた軽いウオーキング程度しか体は動かしていなかった。11月に入って、左足指の回復が見られないので大きいサイズのウオーキング・シューズを購入し、毎日2〜3時間、空身でウオーキングを重ねた。高所での酸素不足で痩せていた足の筋肉も戻り始めた。 11月末にマナスル登山参加の意思表明をしてから、4月の出発までのトレーニング・スケジュールを組んで実行に移った。 残念ながら年末年始の上高地山研(日本山岳会の山小屋)でのマナスル登山参加者の合宿には親指の爪が半分ブラブラ状態でプラブーツや硬い登山靴は履くことが出来ず参加できなかった。 12月:毎日82段の神社の階段、1段ヌキ登降10往復を含め2〜4時間の連続ウオーキング。 1月:これに10kgの荷を背負い、両足首に1kgの鉛バンドを巻きつけ毎日3〜4時間、連続ウオーキング。 2月:荷物の重量を12〜14kgにアップ。 3月:同上、但し、歩速を早め大股歩行。 2月11〜14日:シシャパンマに同行した隊長始め8名全員で山形県米沢市白布高湯の天元台、ペンション・エーデルワイス(ガイドとして同行した近藤明氏がオーナー)で耐寒訓練合宿。スキーを滑りモンスターの稜線を歩いて終日吹雪の寒風に体を曝す。 トレーニングは予定通り消化し、順調に出来上がったようだ。 出発直前の4月に入って、隊員全員で東京・代々木に三浦雄一郎氏がオープンし、未だ一般には公開していない「三浦BC」常圧低酸素室に3度通った。健康診断、体力テストを受けた後、インストラクターの指導のもと各人に合った方法とタイミングで「常圧低酸素室」に入り、静止状態での低酸素曝露に続いてロード(附加)をかけたペダル漕ぎなどを毎回3時間実施。 4月14日は第3回目の「三浦BC」でのトレーニングの後、新宿「中村屋」で未踏峰時代のJACマナスル経験者、今回の支援協力者、沢山の会員の方々による盛大な壮行会が開催された。隊員紹介では参加者全員がその決意を表明した。私も「何とか頑張って、登る先がない所まで行って来ます」と述べた。 【4月15日】成田発16:55、TG677便〜21:25バンコック着。タイ国内には入国せず、出発ロビー階にあるレストルームで宿泊、$75/人 【4月16日】バンコック発10:45、TG316便〜13:00カトマンズ着。 入国visaはカトマンズ国際空港到着後$30/人で入手し、エージェントの出迎えを受けて、Royal Singi Hotelにチェックイン。 【4月17日】隊員、同行シェルパ全員でチベット仏教寺院に安全祈願に出掛けた。 荷物の確認と梱包作業。大河原夫妻、野口健氏、小西浩文氏が来訪。 【4月18日】Liaison officer: Hari Raj Shrestaと観光省に出掛け、入山手続き、日本本大使館表敬訪問、大使はブータンに出掛け不在。中島参事官と来年日本・ネパール国交50周年事業の打ち合わせに同行。 【4月19日】チャーターしたヘリコプターでカトマンズ8:55発〜9:30TBC(サマガオン、標高3580m)着。機窓からガネッシュ・ヒマールの峰々が良く見え、TBCに降り立つと目前に憧れのマナスルが巨大な姿でどっしりとかまえていた。 ヘリコプターは2度のフライトで装備・食料等4トンと隊員5名、サーダー1名、クライミング・シェルパ6名、コック2名、キッチンボーイ1名が一挙にTBCに集結した。 到着時は快晴だったが夕方から降雪と風が出た。現地人はたまに通りかかるが他国隊はなく静かな初日だ。 【4月20日】快晴→小雪。食料整理の手伝い。小川氏と9時頃から3800mまで往復。ウオーキング2時間。終日30分毎ぐらいの間隔で氷瀑地帯から大きな雪崩の轟音が聞こえる。夕方5時ごろから小雪が降っていたが20:30にはマナスルのピークや星、月も見えはじめた。 【4月21日】快晴→小雨。高所順応。全員で4050mのピークまで往復。ゆっくり歩いて約4時間半。このピークから先行しているドイツ隊がC1からC2に向かっているのが良く見えた。地面にはサクラ草が咲き、空には数羽の大きな鷲が悠々と旋回している。シェルパ全員でルート偵察兼荷揚げ、帰幕して曰く「BC予定地は深雪だ!」。夕方、本日まで撮ったビデオを鑑賞した。 【4月22日】快晴→雨。チベットへ向う最後の村であるサムドの上部(4000m)まで高所順応のため往復。約6時間半。 【4月23日】快晴→雪。7:00〜15:00BC(4900m)予定地着。雪上にBCを設営、メステント・倉庫・炊事の大型テントを横に繋いで設営。隊員とサーダーには個人テント。シェルパたちは2人使用のテントが張られた。ポーター128人で約4トンの荷揚げをした。 BC設営を完了直後、先行のドイツ隊(若人9名)の隊長からフィックスロープとアルミバーを借用したいと申し入れあり。結論としてロープ400mとアルミバー15本を貸す事にした。フィックスロープはC1とC2間で400m使用し、C2とC3間用の手持ちがなくなったようだ。他にスペイン隊(4名)がテントを張っている。 例年になく積雪が多いようで、大きな荷を背負っててこずりながら急傾斜の雪面を進むポーターたちは愚痴っていた。快晴だった空もBC入り途中から降雪となった。標高差1300m余り、結構長い道のりだった。 【4月24日】曇り→雪。初めて雪上のテントで寝る。下からの冷えも無く湯タンポ、銀マットのお陰で寒くはなかった。6:00ピナクル周辺そしてサマ方面にもガスが湧いていた。なま暖かい風が吹き、テント内は蒸し暑いほど。12:50〜13:40、安全祈願プジャを執り行う。氷のブロックで祭壇を作り長い棒を立て、タルチョ3本をテントサイトに飾り付けた。僧侶の資格を持っているコックのミン・バハルが読経し、ニマ・ヌルブが副司祭を務めた。プジャの最中は曇り勝ちながら暖かかったがその後は降雪激しく気温も下がった。マナスル入り後初めての悪天候となった。個人装備プラパールを開梱、整理。食料棚と日本食整理。ソーラー発電で点灯。プジャ執行の最中に昨日偵察に上がっていたスペイン隊がBCに降りてきた。 【4月25日】快晴→大雪。夜中テント1周のラッセルをしたが、早朝は天空一片の雲すらなかった。アンテナポール設置。夜、隊長からJAC本部に初メール。気象情報受信の打ち合わせでトヨタの竹中さんへ隊長から初電話。JAC旗を隊長が描きそれを三原さんは旗らしく縫い上げた。アタック食各自で分配確保。就寝前にテント周りラッセル。 【4月26日】快晴→雪。6:00テント回りラッセル。≪1≫高所順応行:BC10:00→12:00(マナスル氷河5130m)→13:40BC。BCから尾根状になったところを30分も歩くと尾根も右にあるナイケの壁に吸収され、急な斜面をトラバース気味に登るとマナスル氷河の左岸上に登りつき、その後は広大な氷河の雪原を辿る事になる。 早朝は陽が射していたが、歩き出した時には雲が行き交い暑さと涼しさが交互に何度も続いた。やがてガスとなり雪が降り始め、やがて大雪となった。10:00テントに戻るころにも大雪は続いていた。 シェルパ6名は8:00第1回目の荷揚げ。C1を建設した。 【4月27日】快晴→降雪→星空。休養日とした。昨夜中ラッセル。快晴の朝を迎えたが目覚め後もテント回りをラッセル。夜まで降雪は続いていたが、夕食後外へ出ると初めて星空が見えマナスルが月明かりに幻想的に映えていた。シェルパはC2用装備を荷揚げ。11:00にシャワーテントが完成し、大蔵隊長が試用したが、その後は天候も悪くBC撤収まで遂に誰も使わずじまいに終わった。スペイン隊4名来訪(CL:ホアン・カロ、Dr.カルロス他、98年野口健隊とエベレストで会っており大蔵隊長も顔みしり)。 彼らはブリガンダキ下流のジャガートにおいてマオイストにRps18,000(Rps100/人×45日×4人)を支払ったと云う。また、同隊にシェアー割で参加していたロシア人とブルガリア人は別道中で、許可証に示された7人分と学校への寄付までさせられたと話していた。 【4月28日】大雪→晴→小雪。夜半0:00過ぎから15:00過ぎまで大雪。高所順応を中止、沈。15:30から18:30までテントサイトのラッセル、久しぶりに動いた感あり。夕食前晴れて星が見えたが21:15、メステントを出ると小雪が舞っていた。中村保さんから激励と近々ロンドン講演のメール、早速感謝メールを発信した。 【4月29日】小雪→雪 沈。酸素マスク及びシリンダーのテスト。上部各テントへの食料荷分け。竹中吾郎氏の仲介でアドベンチャー・ウエザー・ドット・コムからエベレストとアンナプルナ天気予報が直接BCに送信されてきた。終日の悪天候でソーラー発電が苦しい。河野氏はテント位置を移転。降雪の中、シェルパは7:00酸素シリンダーなど3回目の荷揚げに出掛けた。 【4月30日】小雪→21:00にやっと星が見えた。沈。各自の上部用食料を軽装化。上部に搬送依頼する個人装備の梱包。シェルパは4回目の荷揚げ。パサン・キダルからトレーニングのため上部に登ればと心配顔でアドバイスあり。JR尼崎駅付近での列車事故のニュースを知り気懸りだ。 【5月1日】終日降雪。高所順応行本日も中止、沈。21:00星空、春の大曲線と木星。C1へ搬送依頼の荷物重量チェックなど。小川氏がプリンをつくり、隊長がコーヒーを沸かし、おやつ時間はマナスル談義。サーダーが新しいトイレを設置、快適なり。 【5月2日】快晴→ガス→小雪。9:45快晴の中4人で≪2≫高所順応行に出かけが途中からガス。(5230m)で持参の昼食をとって13:00、ガスのなかを引き返し14:00BC帰着。14:30に再度昼食。シェルパは個人装備をC1へ荷揚げした。 【5月3日】快晴、昼ごろ→雪。10:00〜12:50、5人全員で≪3≫高所順応行(5350m)、12:30ころまでピナクルやノースピークが見え素晴らしい光景の中でのトレーニングとなった。13:10〜14:00帰幕。本日、シェルパは休養日。 【5月4日】晴→大雪。シェルパは6回目C1へ荷揚げ。天気予報を聞くためにスペイン隊が2度目の来訪。明日からC1入りし、C3からアタックをかける予定と云っている。BCには流川があったはずだが、いまだに雪と氷に覆われたままの状態が続き、雪を火力で溶かし水を得るには燃料不足が心配され始めた。映写会に写しだされる山々の画面は快晴の山ばかり。 【5月5日】快晴→8時頃から終日ガスと雪。とんでもない子供の日。しかし童心に帰りテントサイトのラッセルを半ば自棄気味に2時間楽しんだ。 シェルパは昨日C1経由C2手前まで登ったと報告あり。本日7回目の荷揚げに出たがC2の手前100mでツル・バハドール・タマンがヒドンクレバスに落下した。引き上げたが怪我をしている模様と無線連絡有り。メステントにナキウサギが入り写真まで写されていた。全てが雪の下なのに不思議だ! 【5月6日】終日大雪。大雪の中コックのペマはC1にツル・バハドールを連れ戻しに出掛け、11:00頃帰幕。右肩と腕に怪我を負っているようだ。早速隊長が診るも骨には影響していないだろうと鎮熱軟膏を摺り込む。朝食後メステントでそれぞれが雑談し読書しているが足の指先の冷たいこと冷たいこと!今日の雪はテントを叩くような音入りだ。22日夜から履き換えていないパンツ、パッチから悪臭が上がってくるが洗濯日和など望めそうにない。天気予報は明日も湿度は高いと伝えている。 【5月7日】快晴→ガス。テントの張り直しなどBCの整備。Dr.カルロスはツル・バハドールの怪我は右肩の骨折か靭帯をやられていると診断。シェルパ4名がツルに付き添ってサマへ下山。BCからカトマンズに電話し、明朝のヘリを予約。昼食時スペイン隊に招待さる。数種類のワインとチーズ、生ハム、もも肉の燻製、魚介類の缶詰(魚:アンチョピー、いわし、たらの肝、蛸、いか。貝類:あさり、蛤、牡蠣、ムール貝)どれも薄味で実に美味しい。森安氏から激励メールあり。 【5月8日】初の終日快晴。午後2時ころからガスが上がってくるも途切れがち、夕方にはピナクルが輝くなど幻想的な光景もあった。10:00から≪4≫高所順応行5300mへ、13:30到達。氷河上の強烈な直射日光と輻射熱の暑さには閉口だ。C1からC2へのルート上に氷河の崩壊箇所があり大きな雪崩が出ている。ツルは小型ヘリでKTMDへ。ヘリで搬送を依頼した野菜は僅かしか運ばれてこなかったようだ。夕方、小川さんが大声で「腹が減った」と歌いだし、うたたねから目覚めた。今日は他国隊も停滞をしていたようだ。平林克敏氏から激励メールあり。 【5月9日】晴のち夕食中から→大雪 河野、小川と3名で高所順応≪5≫10:00発、14:20ナイケコル5500m着。16:00BC帰着。コルからチベット側の岩峰が目前に見えた。サマから戻ったシェルパたちは鶏と灯油などを荷揚げしてきた。 【5月10日】明け方まで大雪→小雪→大雪→風雪。10:30シェルパは降雪の中、8回目の荷揚げへ。コックのワンチェも同行。夕方パサン曰く、ツルは夏にはG1、秋にはエベレストの予定が入っていたと。近藤明氏から激励メールあり。 【5月11日】快晴→小雪・ガス。朝食後C1上にシェルパを見かけたが深雪で雪崩の可能性があり行動できなかったようだ。スペイン隊のロシア人(8000m峰11峰を登り、残すはマナスル、この夏のK2そしてこの冬のアンナプルナ!?だと)とグルジュア人(7峰の8000mに登頂している)の二人は明日出発しアタックに入ると。 【5月12日】快晴→大雪・ガス。5人で高所順応≪6≫9:00に出かけるも大雪になり1時間半ほどでUターンし、11:00BC帰着。 【5月13日】快晴→ガス→雪。朝食後ドイツ隊隊長が訪ねてきて明日下山をする。ついてはC2テント撤収のためシェルパ借用の申し入れあり。我が隊もスケジュール的に遅れているのでシェルパ提供は出来ないが、時間に余裕が出来れば担ぎ下ろす事で話をつけた。スペイン隊全員とロシア人、グルジュア人そしてドイツ隊のコロンビア人まで一緒になって我がテントに天気予報を覗きにきた。芳しくない予報に、シェルパの共用まで言い出した。昼寝後3時間ほど吹雪のテントの中でいろんな歌を独唱していた。四足動物の足跡が祭壇周辺や尾根上に続き、雀よりやや大きい小鳥も祭壇の米など啄ばんでいる。多恵子から激励メールあり、東京オープン、シングルスで二位だったと。あと一息だ! 【5月14日】大雪。5人で高所順応≪7≫7:00出発、大雪の上、トレースもなく小川氏が殆ど単独でラッセルし、12:00ナイケコル上部5530m着。ガチャ類をデポし14:00帰幕。ガチャ類をデポしている所にドイツ人2名と同行のシェルパが降りてきた。やや遅れていた三原さんを待ってコルからの下り、もはやトレースが見ないほど新雪が積もっていた。途中でドイツ人二人が追い抜いて下って行った。パサンとロジェが暑いレモンジュースを持って途中まで出迎えに来てくれた。吹雪の中での雪落とし、ザックをテントに入れ、靴を脱ぐまで半時間近くを要した。指先は冷たいし、体は汗ばんで湿っているし不快感大であるがテントに入り、シュラフに潜り込む以外に選択肢なし。それにしても仲間の4名は凄い強人だ。太陽光線が弱くソーラーの発電力は不足でメールの発信は出来ず、灯火も不可だった。夜20:30シュラフに入るとテントに音を立てて降っていた雪は止み、濃いガスに覆われていた。 【5月15日】快晴→夕方からガス。シェルパ6名で9回目の荷揚げをしてC1入り。ドイツ隊は雪稜の上でマナスルを振り返りながら撤収していった。多恵子に東京オープンのお祝いと関東大会に集中するようメールを送信。 【5月16日】快晴→風雪→夕食時は雪も止んだ。夜中、鼻づまりで苦しかった。小川氏の忠告どおりシュラフのカバーを中に入れたほうが寝袋への出入りがし易い。5:00にはC1のシェルパはC2に向かっているとのこと。朝食後、5名がドンドン登っているのが肉眼でよく見えた。夕食後天気予報を見たいとスペイン隊長が来訪。スペイン隊、ロシア人、グルジュア人(冬、秋2度、今回とマナスルは4回目だと)、コロンビア人は全員で明日アタック態勢に入るとのこと。スペイン隊のサーダーは「スペイン隊エベレスト登頂25周年記念式典」にスペインに招待され下山したと最終段階で戦列を離れたようだ。恵理子からマナスルの山奥までメールが届くのを知らなかったとメールあり。 【5月17日】晴→雪。高所順応≪8≫9:00〜13:30ナイケコルデポ地13:50〜15:30BC。河野、小川、南井の三名、三原さんは休養。河野氏は小川氏のペースでは大汗が出るのでと先行。我々二名は途中2度休憩を取ってナイケコル寸前でラッセルに苦しむ河野氏に追いついた。コル周辺ではチベットサイドよりナイケピーク、ピナクルも良く見え、シェルパたち6名がC2に荷揚げしている様子も良く見えた。明日、我々もC1入りすることを決定した。19日サマガオン以来はき続けてきたパンツを履き替え明日のC1入りに備えた。明日誕生日を迎える恵理子に誕生祝のメールを発信。朴元総隊長が29日ヘリコプターでサマガオン入りするとメール受信。シェルパたちC2への荷揚げ。 コルからの帰途、スペイン2隊、ロシア、グルジュア、コロンビア人が一団となってC1に入るのに出会った。 【5月18日】快晴→雷を伴う猛吹雪。≪9≫回目の登りだ。9:00〜13:15ナイケコル着。C1入りに相応しい快晴がナイケコル着後から一転して、雷を伴う猛吹雪の中、15:05、C1(5750m)着。ナイケコルでデポを取り出し、ファーネスを着けている間に吹雪き始め雷鳴が聞こえだした。通称黒岩部分に取り付けられた100m余りのフィックスロープを頼りに雪の急斜面を登りきるとC1サイト(5750m)だった。スペイン隊など他の隊のテントも有り、自分たちのテントが分からず吹雪の中で戸惑っていたところ、しんがりを努めていたミン・バハドールが自分たちのテントを見つけ出し、鍵を取り出してやっとの思いでテント入りした。C1では夕暮れまで大雪と雷鳴が轟き閃光が走っていた。稜線の上にテントサイトがあるだけに落雷には全く無防備な状態で不気味だった。テント内で5名は夕食後、大蔵隊長と三原さんは別テントに移り、3名はデポ荷物や酸素シリンダーなど両サイドに寄せて何とかシュラフを拡げた。 明日、我々とC2に同行するため、ロジェ・ソナムとラクパ・ドルジュが大雪を突いてC1に戻って来た。上は猛烈な吹雪でC3にいる3名の内、2名は軽い凍傷を負っていると報告有り。その上、BCとの無線連絡が取れずに状況判断に苦しんでいたと。正午過ぎまでナイケコル手前ではシェルパたちがC1からC2に向かっているのが良く見えた。スペイン隊など14〜5人もC2に向かっているのが良く見えていたが、落雷を伴う猛吹雪に会ってC2手前から退散してきた。暗くなる寸前に全員が打ちひしがれていた。 【5月19日】快晴→吹雪。快晴の目覚めだ。やがてC2にいるパサン・キダルと無線が通じ、2名の凍傷もたいしたことはないので明日C2に上がって来るように連絡あり。早速テント内で酸素の量などを念入りにチェックし、シリンダーをザック内に固定して明日に備えた。三原さんは荷物を背負って上部に登るには自信が無いと下山を決意し、ラクパがナイケコルまで同行し、BCからコックの出迎えを受けて下山した。またスペイン隊なども全員が撤退下山していった。今春、最後までマナスルに残ったのは我々隊のみ。いよいよ気合が入ってきた。 スペイン隊ホアン隊長曰く「昨日、午前中は快晴で全員喜んで出発した。昼過ぎ頃から俄かに天候が激変した。猛吹雪となり、ルートもテントサイトも全く見えなくなった。5時間余り雷を含んだ猛吹雪に曝され、寒気は増し、下山を決意したが帰路ではフィックスロープを見つけるのに苦労した。昨夜、暗くなる頃までに全員がC1に帰着できた事は幸運だった」と。また、ドイツ隊がC3に設営した5張りのテントの撤収に向かったシェルパ曰く「昼過ぎから5時間余り目を開けているのも辛いほどの吹雪となり、全てが雪の下になってしまった。フィックスロープはあちこちで雪崩のために切れていた」と。 11:00、C3の建設に出向いたパサンからハンディトーキー連絡有り。「C3にデポした2000mのザイルとアイスバーが全て雪崩で流された。C3のドイツ隊のテント群も雪崩か吹雪で飛ばされ陰も形もなくなっている。明日の出発は見合わせて欲しい。昨日、C3からC2に戻る途中で猛吹雪に襲われ、C2が見つからずに5時間も探しあぐね2名は手の指に凍傷を負っている。昨夜はビバーク状態で3名とも体調は良くない」と。 C2への登路はこの度の悪天候により大きな影響を与え、深雪のラッセルと雪崩、クレバス地帯のフィックスロープの張りなおし、午後には必ず発生する雷など難問が山積みされ、無理をしてC2入りは出来ても先の見通しがないと急遽下山の決断を下した。我々4名は晴れているうちにと重荷を背負ってフィックスロープあたりまで歩き出した時、山は荒れ始めていた。雲が湧いてマナスルに向かって流れ始めた。大雪原を思わせる氷河地帯の緩んだ雪に足を取られながら逃げるようにして14:00BCに帰着。大粒の雪がテントを叩いていた。 【5月20日】快晴→雷を伴う吹雪。昼食は差し入れの超銘酒「八海山」と貝柱で残念会を催し、夕食には隊長夫人差し入れの「うなぎの蒲焼」を御馳走になった。シェルパから取って置きのスイカが卓上に出されたのには驚きと共に感謝。夕食前2時間ほどテントの中で山の歌など唄っていたが、ディナーコールでテントを出ようとすると今日も20cmほど新雪が積もっていた。大蔵隊長と小川氏は昨年チョモランマに同行し、登頂しての帰途に事故死した大田祥子医師の追悼法要をプジャで行った祭壇の前で小川氏のしめやかな般若心経の読経で厳かに執り行っていた。スペイン隊など他の隊全員は我々の隊を訪ねてきて、ある者は水を求め、ある者は缶ビールを手にして別れを告げて下山して行った。我々の朝食を準備したペマとサルキはナイケコルまで荷下げに出かけ、13:30頃、背には大きな荷物を背負い、両手に大きな袋を引きずってBCに帰着した。C1にあった個人装備など殆ど降ろしてくれたようだ。夕食中、雷と吹雪の中をシェルパ5名が荷降ろしでBCに帰幕した。ロジェ・ソナムがヒドンクレバスに落下し、ガジャ類とアイスハーケン類はなくしたが元気に戻ってきてくれたのは何よりだった。 【5月21日】快晴→曇。久しぶりに降雪なし。シェルパ5名はナイケコルまで荷下げに往復し11時過ぎに大きい荷物を背負ってBCに戻ってきた。その間に各自は個人装備の梱包をまとめ、余った食料を整理した。明日の撤収を聞きつけ、現地人2人がこれらの食料の買い付けにBCまで登ってきた。クライミング・シェルパ頭のパサンが彼らとネゴをして8000ルピーのところを6000ルピーに値切られたとぼやいていた。それにしてもこんな雪に覆われた氷雪の世界にまで商売人が登ってくるとは凄いものだ!夕方1時間ほどテントに戻りシュラフに入っていた。夕食後も全員は寒くてテントに帰りシュラフに潜り込んだ。多恵子から「皆さんに個性の強い夫が大変お世話になった事でしょう。お付き合い有難うございました」と感謝のメールあり。 【5月22日】快晴→雨(BCは雪だろう)。BC9:45〜13:30サマガオンTBC着(雨となる)5時に各テントに紅茶が配られ6時半ごろには出発準備を完了したがポーターたちの到着が遅い。やがて53人のポーターが到着し一人当り30kgを担いで撤収を始めた。雪の尾根状を降りる者とナイケ側の谷を降りる者に分かれた。私は谷筋を下るほうが登りはないだろうと谷筋を下った。途中で尻セードをするなど春山気分だった。小川氏はマッキンレーの経験を活かしザックに紐をつけて雪の上を引きずって下っていた。尾根道と出会った所で全員合流。軽食を取って大蔵隊長はポーターへの支払い現金を担いでパサンとロジェと共に駆け下って行った。残雪から溶け出す水でラーメンと味噌汁をつくり、ゆっくりと下山し、カルカには河野、三原両氏が待っていてくれた。入山時にはちらほらと見られた花が今は盛りとなりサクラ草、あやめ、黄色の花、石楠花などが満開となっていた。個人テントに入って片づけをし、メステントでお茶を飲んでいるときに、スペイン隊の荷下ろしを終えたポーターが大怪我を負い、わがTBCのメステントに担ぎ込まれた。右足脛に落石を受け、肉が削げ骨まで20cm程ぱっくりと開いてしまっていた。出血は止まっていたが傷口がぐしゃぐしゃだ。大蔵隊長の指示でパサンが消毒と化膿止めを塗りつけたガーゼを傷口に被せ包帯を巻く。そして化膿止め薬10日分と痛み止め薬を何度も注意して与えた。これは応急処置なので病院なり医療施設で本格的な処置を受けるよう奨めたが一番近くの医療機関でも悪路のブリガンダキ沿いに下って7日はかかる。我々の撤収ヘリコプターでカトマンズの病院行きを奨めたが金がかかるので行きたくないと拒絶する。医療施設の貧困さを知らされた。 【5月23日】快晴、→ガス、夕方→雷雨。サマ部落見物。BCから毎日のように眺めおろしていたサマ部落を訪問。TBCを出て数分後マナスル氷河からの激流が本流に流れ込む少し上流で村人が沢山集まって架橋敷設工事をしていた。部落の入り口にあるマナスルホテルの庭で一休み。紅茶と茹でたジャガイモが実に美味い。因みに中国製ビールRps200。サマ部落の真ん中を清流が流れ水流を利用して煎った小麦を石臼で挽いていた。ハッタイ粉だ。香ばしくて美味しい。道のあちこちに水道の蛇口から清水が流されておりこの水で洗濯をする女性や水浴びをする子供たちも見かけた。石積みの民家には枯れ木が沢山積まれていたが平素の燃料と冬場への蓄えであろう。庭の日陰で機織に夢中になっている女性も見かけた。新設された学校では低学年の児童が大声で英語の発音勉強をしていた。通りで出会った就学前の子供たちも英語で話しかけてくるが外人旅行者は一人見かけただけ、チベットとの交易も他に安全な道が開通し皆無の状態だ。マナスル登山隊のポーターたちは賃金以外に現金収入はないだろう。サマ部落の将来が思いやられる。帰路、ゴンパを見学したが沢山の年老いた男女が祈りを捧げていた。ゴンパの中にはホテルの食堂同様に薄明るい裸電球が点されていた。電力はブリガンダキ下流の方から送電されているとのこと。 【5月24日】快晴→小雨、雷数回。BC12:00〜15:00サムド(4000m)泊。マナスルを北面から見ておくために出かけた。夜中にテントに溜まった雨水のかいだし作業に1時間ほど費やした。大蔵隊長は朝5時にテント内の水浸しに気が付いたがパソコンやデータ類がやられたようだ。こんなことで出発が正午になってしまった。道中には1ヶ月前には見かけなかった見事満開の石楠花に楽しいトレッキングとなった。畑の中にテントを張ったがメステントはなく、マナスル・ホテル・ロッジに食事持込で夕食をとった。石造りの家から笛や太鼓の音が聞こえていたがお祈りか、お祭りか定かでなかった。 【5月25日】快晴→ガス。8:45〜13:00ラルキャ石室(4460m) 夜中、満月の山々は凛と聳え凄みがあった。快晴の夜明け、キャンプサイトからP29とヒマルチュリが真南に高く聳えていた。サムドを出て2時間ほどでナイケコル、C1、マナスル氷河上部、プラトー、ピナクル、マナスル本峰へのルートが北面から一望できた。テントなど荷揚げ用に馬2頭を使った。Rps500/馬也。 【5月26日】快晴→曇り→小雪。6:40〜10:40ラルキャ峠(5100m)11:20〜13:20テントサイト帰着。荒涼とした氷河沿いの踏み跡をたどりドードコシ源頭の氷河への分水嶺までトレッキングした。峠から西にアンナプルナU峰が見えているはずだが同定できなかった。帰路、殆ど荷物を持たない初老の夫婦らしきペアーに出会ったが雪が降り出した峠を無事に越えて目的地に着いたかどうか心配だった。 【5月27日】快晴→雷雨。7:50〜10:10、サムド12:10〜14:10TBC。TBCへの帰路ヒマルチュリは良く見えていたがマナスル側は濃いガスの中だった。TBCに着くなり激しい雷雨と雪崩の大音響がひっきりなしに続いた。雷雨は23:00には止み、その後は半月の明かりと満天の星空だ。 【5月28日】快晴。カッコーの鳴き声で目覚め。撤収準備。近くの山々は裾まで新雪に覆われていた。テントの上は昨夜の雨と霙で凍っている。TBC最後の夕食はコック達手作りの大きなケーキの上に「See you again !」と書かれていた。 【5月29日】快晴。7時半大型ヘリ到着。米、トタン板など満載。荷物は2.6トンあったが重量超過で400kg程おろし、30分ほどでカトマンズ帰着。 【5月30日】Mrs.Horis assistantとのinterview。Liaisonと下山届け提出。サーダー宅へ夕食の招待を受けた。 【5月31日】休養日、絵はがき書きに費やした。 【6月1日】13:40(TG320便)〜18:10BKK(TG642便)23:10〜機窓から、チョー・オユー、エベレスト、ローツェ、マカルー、カンチが見え続けた。 【6月2日】〜07:30成田帰着。再会を約束し解散。帰宅。以上 ☆編者(管理者)よりおことわり・・・文章と写真の配置が不適切ですがお許しください。 |