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ネパールトレッキング報告書(2003年) ルクラ〜エベレストBC往復 はじめに 去る10月12日より26日までの14日間、現役部員である森君、吉田君と同行して、かねてより計画していたエベレストトレッキングへ行ってきた。現役部員は、半ばロートル2名のサポート、および今後の山行に繋がればと思って来てもらったが、若さが災いして高度順化に失敗してしまい、全行程をこなすことができなかった。しかしながら、初めての高度、初めての世界最高峰を目の当たりにし、出会う日本人から「○○をアタック計画している」とか、「あの人は○○を狙っているらしい」とかいう具体的な登攀計画等を聞くにつれ、現役部員は両名とも血が騒ぐのを止めきれないらしく、目の色は深まり、頬は紅潮し、感極まって訳のわからないオメキ声をあげる等、リトマス試験紙よりもわかりやすい反応を示していたことは、出資者の一人としてまことに嬉しい限りであった。 ロートル2名は慎重な行動が幸いしたのか、高度5000m手前付近(ロブチェ)から好調で、クーンブ氷河への下降こそ時間切れで出来なかったが、ほぼ予定通りの行程をこなし、十分に満足して仕事に戻った。 今回、森が巡回医師から軽度の高度障害である旨指摘を受け、夜間行動でペリチェにある診療所へ搬送されるという、あまり嬉しくないオマケがついてしまったが、身をもって体験した今回の障害を今後の糧として、十分な研究と対策を施して次回また挑戦してもらいたいと願うものである。 計画行程と実際行程
参加人員 CL 【森 規彰】 関西学院大学山岳部 経済学部5年生 SL 【高田 英明 男性】(株)間組 国際事業統括支店 1967年1月29日生 費用実績 (一人あたり)
【行動記録】 ■2002年10月11日(金) 午前中にエージェントと打ち合わせ。 タメル地区[1]の名店「ファイア&アイス」にて現役と合流。今日は奮発して高級ホテル最上階にあるチベッタン鍋の店に現役を連行。腹一杯食わせてホテルへ戻る。 ■2002年10月12日(土) 当初予定では出発の日だが、エージェントからの連絡で飛行機の座席が取れないとのことで、一日停滞となる。 ■2002年10月13日(日) カトマンズはこの時期霧が濃く、標高1200mの高原にある空港は案の定濃霧に包まれている。(0700のフライト予定が大幅にずれ込んで、漸く0840に離陸。 到着出口の外に出ると、「タカダ!!」と呼ぶものアリ。現役当時と全く変わらない関大OBの奥田君が雪駄履きで出迎えてくれる。初の5000mへの不安をちょっと口にするタカダに、軽く、「いっけるやろォ〜、イケるイケる」と現役時代そのままに言ってくれたのが結構心強かったりする。 1時間も歩かない内に「昼食」という。全行程を通じて判明したことだが、パクディン止まりだと時間が余ってしまう[2]。いくら彼らが屈強のシェルパと言っても、完全な平地でこちらは空身同然、あちらは全装備を担いでいるのだから、彼らのペースも考えながら歩かないといけないということのよう。以後、「キッチンチーム通過待ち」休憩をとることとした。 その後はのんびりと歩く・・・つもりが、空身同然のこともあり、ついついスピードが上がってしまう。 14時過ぎにパクディン着。小屋にいたノルウェー人に、「おまえらの行程は結構無茶だ、もっとゆっくり順化していかないと絶対にやられる」と脅される。 ■2002年10月14日(月) 今日はしばらくドゥード河沿いに河原歩きのあと、最後の橋を渡ってナムチェバザールへの急登をひたすらこなす行程である。昼食予定地のジョルサーレまで相変わらずダラダラと歩く。途中モンジョの町を通り過ぎて、石段を一つ超えると、そこが国立公園の入り口だった。サーダーが手続きをする間、全員で集合写真を撮る。 昼食地のジョルサーレまで歩くが、この日は待ち合わせ場所の打ち合わせに失敗したらしく、キッチンチームに会えなかったため、ジョルサーレのティーハウスで昼食とした[3]。気を取り直して「ナムチェ尾根」の取り付きへ。 河原を歩いていくと、見上げるほどの高い位置に対岸へ渡る橋が架かっている。ドゥード河はナムチェ尾根を境界にして右股(ドゥード河本流)と左股(ボーテ河)に分かれる[4]。右股左岸を高巻くように登ると橋の基部に出る。他のトレッカー、荷運びのウシ等をやり過ごして揺れる吊り橋を渡る。渡り終えてからは登る一方の苦しい道。 現役2名は空身同然のこともあり、快調にとばす。急登のあと緩やかになる、と言っても登りは登り。 2時間強歩いたところで、前方にナムチェバザール入り口らしき集落が見えてくる。やっと着いたか・・・と安心したら、ただの入り口チェックポストだった。ここで再度チェックを受け、右手に見えている階段をまた登る。これを登り切るとナムチェの入り口街道となり、少し行くと写真で見るとおりのナムチェバザールが眼下に広がる。 ■2002年10月15日(火) ぼけっとするのはもったいないし、高度順化の目的もあって、エベレストビューホテルまで行くこととする。丘を登り切ったところで長めの休憩をとり、さらにもう一段上に見えている高みへゆっくり歩く。クーンブマウントビューという、質素だが趣味の良いロッジの庭から、ちょっとだけ顔をのぞかせているエベレストが見えた。ここからエベレストビューまではほぼ水平にひと歩きで、テラスからエベレストを望みながらお茶を飲む。 テント場へ戻って、昼食の後、エージェントに依頼しておいたガモウバッグ[5]のデモンストレーションを受ける。被験者森。 ■2002年10月16日(水) 今日の行程は、出だし水平道のあと一旦河原まで高度を下げ、その後タンボチェへの登り600m。森はこれまでの行動の遅さに堪えかねたらしく、今日から重荷を背負う。快晴の空の下、眼前にローツェ、アマダブラム、少しアタマを覗かせているエベレストを見ながら水平道をゆっくり歩く。水平歩きに飽きてきた頃、ようやく道が下り始める。降りきったところで昼食。 昼食後いよいよ急登にとりかかる。森林帯の急登をこなし、少し緩やかになる中腹の道を行く。午前中に見えていた道はこの道。現役2名はひたすらとばす。が、ロートルはそろそろ高度が影響してきて、口数がぐっと減ってくる。ようやくたどり着いたタンボチェは、まさに「山奥の秘境」という印象。チベット仏教の寺院があり、その前に芝生の広場がみわたせ、遠くエベレストのアタマが覗いているという構図。しばし見とれる。 夕方の冷え込みはさすがに厳しく、毛シャツ+フリースでもかなり寒い。小屋の食堂に呼ばれ、お茶を飲みながら寒さをやり過ごす。来週の初めにはタンボチェのお祭り(満月祭)とのこと。 ■2002年10月17日(木) 今日の行程は、タンボチェから一旦河原へ緩く下り、その後ペリチェまでひたすら登る。森は今日も重荷。 ミリンゴという村を越えた後道を左岸から右岸に移し、ここからひたすら登り続ける。だんだん体が酸欠になっていくのがわかる。右下に河の流れを見ながら、中腹の道を歩く。遙か向こうにチョルテンと、その向こうにそびえ立つアマダブラムが絶妙のコントラストを見せてかっこよくそびえ立っているが、それどころではない気分。高田、伊勢ともに絶不調。昼食場所のショマーレ手前など、一歩が20cmぐらいの小ささで、歩くゼンマイロボットのオモチャを思い出す。伊勢がどうにも調子が悪く、体も冷えて仕方がないというので、予定のショマーレ手前のパンボチェの村にてラーメンを食べる。 その後ショマーレまで何とか歩き、倒れ込むように食堂に入って、お茶を飲む。周りにいるトレッカーも、呆然と宙を見つめて疲労回復に努めている様子。なるほど、みんなこの辺で酸欠になるらしい。昼食もこれまでほど進まない。まあ、西洋風の食事に飽きてきたというのも一つの理由だが。 昼食後もペースはあがらない。今思うと、このショマーレからペリチェまでの間が一番キツかった。 ひたすら緩い登りを進み続け、だだっ広い草原状の高地を行く。遠く見えている草原の終わりにはチョルテンが建てられており、ここまでたどり着くと漸くペリチェの村落が見えた。 ■2002年10月18日(金) みんな疲れていることもあり、また、ここで焦って順化に失敗しても元も子もないので、一日順化日とする。 高田は朝食後偵察と順化を兼ねてトゥクラ方面へ歩いてみることとする。順化を意識してゆっくり歩き、トゥクラの小屋で一休みしてテント場へ戻る。現役2名は午後ペリチェ裏の丘に登って順化活動をする。森は4800m近辺まであがったとのことで、絶好調。吉田は森のペースに着いていけなかったのか、夕食の時はちょっと元気がなかった。 伊勢、高田は、毎日午後3時からヒマラヤ救助協会(HRA)[6]が行っている、高度障害に関する無料講習に出かける。高度障害予防薬の試薬をもらう。 夕食に出てきたヤクのチーズを口に入れた途端、森が小屋の神棚の下にダウン。ロートル二人がそれまでの森の勢いとのあまりのギャップに爆笑する中、「ヤバイっす、これ、ヤバイっすよ」を連発していた。HRAの試薬を服用して就寝。 ■2002年10月19日(土) いよいよロブチェへの移動日。ペリチェ、ロブチェあたりでほとんどの人が高度障害にかかるとのことだったので緊張する。 今日の行程は、昨日歩いたとおりしばらく平坦な道を行き、眼前のカール末端を右上に巻き込むようにしてしばらく登り、トゥクラへ。その後300mの急登を経てカール状の高原をロブチェまで歩く。 伊勢、高田は昨日の行動でルートを知っていることもあり、今日は快調とは行かないまでも順調。が、やはり登りはきついもので、だんだん後続のことを忘れて進む。先行してトゥクラに到着し、早めの昼食をのんびり待っていると、伊勢・吉田がほぼ同時に到着、遅れて森が到着と、順番が入れ替わっていた。このピッチがこの後の行動のすべてを示唆していたのかもしれない。 森はどういう訳か(昨日4800まで行って元気満々だったのに)非常に消耗しており、重荷を吉田に預けて以降の行動をとる。昼食にもほとんど手をつけない。理由を聞くと、「昨日のヤクチーズが」と言うので、ロートル二人は再度爆笑する。吉田は森の姿を見て安心したのか、食欲が盛り返してきたようである。二人とも特に頭痛等の症状はない、というので、そのまま行動を続ける。 300mの登りはこの高度ではかなりキツイ。この登りを抜けてしばらく行くと、マニ石と小チョルテンの乱立する広場のような所に出る。ここで撮影を兼ねて長めに休憩する。重荷を引き継いだ吉田だが、比較的順調に歩いている様子。休憩の後カール状平原の右岸についている緩い登りの道をひたすら詰めていく。ゆっくりと、確実に、深い呼吸を乱さないようにしながら1時間ほど歩くと、目指すロブチェに到着した。 森の到着が遅いので、副シェルパを急いで呼び寄せ、森の様子を見に行く。途中でぶっ倒れているのではないか・・・、などと心配しながら歩いていると程なく森が村の入り口に姿を見せる。ちょっと安心して、「おーい、森、こっちや」と声をかけるが反応がない。副シェルパも声を出して呼んでいるが、まったく反応しない。「これはヤバイかも・・・?」と思いつつ近づいていくが、森は我々の方には見向きもしないで見当違いの方向に歩いていく。やっと副シェルパに袖を引かれて気づき、こちらへ向けて歩いてくる。ちょっとぼーっとした感じ。普通に話をしているが、いつもの森よりテンポが遅い感じがする。取り急ぎテントに入れ、お茶を飲ませて休養するように指示。同じテントの吉田に、「なにやら反応も鈍いし、バテてるんか、高度障害なんかちょっとわからんけど、とにかく様子をしっかり見といてくれ」と指示する。 夕刻、森は食事にほとんど手をつけない。頭痛はないという。高度障害というより昨日のヤクチーズが・・・と繰り返す。もう笑ってはいられない。何か対応を考えないといけない。ナムチェ、ペリチェと、それぞれ2日づつ宿泊して順化を計ってきたが、念には念を入れて明日はロブチェでの順化日と決定する。 ■2002年10月20日(日) 今日は大事をとって沈殿。それぞれ休養日にあてるが、高田は先が気になるので順化がてら1時間程度歩いてみることにする。ロブチェからカール状の道を詰め、突き当たりに見えている200mほどの高度差の坂をジグザグに登る。目標は氷河が見えるまで、ということにしておいたが、ちょっと氷河が見える窪地までたどり着いて時間切れ。午後はしばらく昼寝をし、その後肉じゃがとうどんの調理にかかる。 元々の予定では明日はカラパタール往復、明後日BC往復としていたが、行動に無駄が多い(ロブチェベースで往復を繰り返す)ので、ルートを変更。 明日はエベレストBCまで一気に歩き、ゴラクシェプにて小屋泊まりとし、翌日カラパタールに登って、ロブチェまで戻ってくることにした。明日はみんな回復していますように。 ■2002年10月21日(月) 今日の行動予定では、ゴラクシェプまで2時間半、BC往復に5〜6時間、最大8時間半のこれまでで最長の行動時間となるため、早起きして歩き出す。 伊勢・高田は順調、森もかなり回復している様子だが、今日は吉田のスピードがあまり上がらない。とはいえみんなそれほど快調にとばせるわけではないので、様子を見ながらゆっくり歩く。 突き当たりの200mの登りを越えると道はガレ道となり、だんだん世界の果てに近づいていく感じがする。これまでの道は、見上げるとアマダブラムやタムセルクが見え、山々に囲まれている、といった感じだったが、今やアマダブラムやタムセルク、カンテガはほぼ視線と同じ高さにあり、眼前にはプモリがそびえ立ち、右にはいわゆるエベレスト東南稜とヌプツェ、クーンブ氷河の末端などが見え隠れする。エベレストは高度差の関係で東南稜の陰に隠れ、時にそのアタマだけチラチラ見せている。 淡々と歩いてゴラクシェプに到着。吉田が2番手で到着。程なく伊勢、森が到着。しばし小屋で休憩する。ここが5100mなので、BCまでの高度差はあと200mぐらい。お茶を飲んで、ラーメン食べたい人は食べて出発。歩き出して程なく吉田が動かなくなる。しばらく歩いてみるが回復しないので、サーダーをつけて小屋に戻す。吉田を帰してみると、今度は森の速度が遅い。ほろ酔いでその辺の道をぶらぶら歩いている感じの足取り。 途中からいよいよクーンブ氷河右岸に入り、これまでと違う聖域という印象が強まる。距離感としては涸沢と穂高といった程度だが、なにせカールの上部には東南稜とヌプツェ、左にはプモリが見えている。 ここまで来たんだ、という感慨がわいて興奮してくる。取り憑かれるように進んで、ふと気づくと後続とずいぶん離れている。時計を見ると正午。眼前に見えているBCは、これからさらに1時間ほどすすみ、クーンブ氷河に降り立ち、そこからまだ小一時間ほどかかりそうな所にある。つまり、ここから往復して3時間はかかりそうな場所だ。森の足取りを見ていると、今から時間短縮が図れるとは思えない。追いついてきた伊勢さんと相談し、BC往復はこの時点で諦めることとした。 追いついてきた森に時間切れ引き返しを伝える。「もう少し、あの、道がとぎれているところまで」というので、副シェルパをつけて行かせる。この日の弁当を食べていなかったことを思い出し、森を待ちがてら弁当を広げる。 夕刻ミーティング。調子の悪いものは無理せずに、朝一番からロブチェへ下山することを確認。サーダーは下山組につけ、カラパタール組は副シェルパと同行することにした。 ■2002年10月22日(火) ●● 森の行動 起床して食堂に行ってみると、昨夜絶不調だった吉田は意外と元気で、交代に森が絶不調とのこと。森は無理せずに降りたい、というのでおろすこととし、吉田はカラパタールまで行きたい、というので同行することにする。両名とも頭痛等はないとのこと。 サーダーに、ゆっくり行くこと、ロブチェについたらすぐに休憩させること、深刻な状態になったらペリチェまでおろすこと、決して目を離さないこと、等を指示して、小屋の前で別れる。 登りだしてみると吉田はやはりスピードが上がらない。が、受け答え等ははっきりしており、継続して上を目指す。ものすごく長い時間をかけて歩いたような気がするが、実際には2時間弱でカラパタールの展望地点に到着。道中我が物顔で登山路を塞いでいた中国人一行があがってくる。みんなが休憩している間を動き回って記念撮影を始めるので、鬱陶しくなって下山を開始する。今日はまだこれからロブチェへ戻らなければならない。 小屋にたどり着いた途端、吉田が食堂の長いすに倒れ込むようにして目を閉じる。受け答えはするが、食事は要らないという。心配した伊勢氏が「ウシで降ろそう」と言い出す。が、小屋の主人によるとウシもポーターも出払っていて、「自分の足でゆっくり降りるしかないよ」とのこと。まあ、当然のことではある。副シェルパを一足先にロブチェへ行かせ、ポーターかその他の手段を講じて迎えに来るように指示する。吉田は少しふらついているが、ゆっくりなら歩ける様子。来るときに苦しかった200m高度差の登り(このときは下り)に到達する少し手前で、向こうからやってくる馬喰と馬一頭を発見。早速馬上にあがらせ、記念に一枚写真撮影。夕方5時頃に漸くロブチェにたどり着く。お茶をのんで、しばし感慨にふける。あとは下るだけだ。 ●● 森・高田の行動 地図を見ながらお茶を飲み、ゆっくり食事を待っていたところ、ヒマラヤ救助協会診療所のスタッフ2名が小屋を訪問してくる。彼らはベースをペリチェにおいて、タンボチェ、ロブチェへも巡回訪問をしながら高度障害による事故を未然に防ごうと努力している。このときは男性1名と女性1名。男性は医薬品会社からの派遣、女性は医学生とのこと。 吉田を連れて歩いているときにこのスタッフに声をかけられていたので、あちらから「その方はもう大丈夫ですか?」と聞いてくる。一通り事情を説明する。夕食が近くなったので吉田がテントで寝ている森を迎えに行ったが、このときの登場のしかたがショッキングだった。 フラフラの足取りの森。左肩の下に吉田が体を入れ、かろうじて歩行を支えている。「なんか、今起きてみたら歩けないんですよね」という。HRAのスタッフはこれを見た途端、「高山病だ」という。 血中酸素濃度を測定すると、42。HRAのスタッフは「いや、そんなはずはない、これだと普通の人間は意識を保っていられない」と、数度計測し直すが、何度計測しても50を超えない。幾通りかの高度障害測定テストが行われる。眼球の動きの測定。バランス歩行の測定。補聴器による肺の呼吸音の検査。また血中酸素濃度の測定。 「我々の最終判断としては、即刻ペリチェへ降ろすべきと思います。まず彼はバランス歩行[7]が出来ない。これは脳障害のごくごく初期段階に現れる症状です。次にわずかではありますが肺呼吸音の中に水泡音が聞き取れます。これは肺水腫の前兆です。そして決定的なのは、彼の血中酸素濃度が50を切っているということです。通常の人間なら意識を保っていられない数値です。機械の故障かと思いましたが、他の人では正常値(70〜80)を示してます。彼が特異体質で、彼に対してだけ正常な数値が示されない可能性はありますが、そのことで我々の判断が左右されることはありません。安全側で判断すれば、答えは下山です」という。 みんなと相談して「今晩一晩は様子を見ることにしたい。どうせ明日からは下りだし」と言ったところ、女性スタッフがじっと見つめ返してくる。「どうしたらこの人間を説得できるか?」と考えている風な深刻な目つき。こちらも目をそらさずにじっと見返したので、話が出来ると思ったらしく、「不賛成です」と言下に言い切った。「今すぐ降りることを強く推奨します。肺水腫の前兆傾向がある以上、この高度にとどまって彼が回復に向かう可能性は医学的に考えてあり得ません。少しでも酸素濃度の高い場所へ移動するべきです。ペリチェには診療所があり、十分な施設もあります」と真剣に訴えてくる。 医学的知識のある人間にここまできっぱり言われてしまうと、これを無視することはできない。森に下山を指示する。高田も一緒にペリチェへ行くこととする。伊勢氏に後のことを任せる。「明日は副シェルパに伊勢さんが指示を出して、ペリチェで落ち合いましょう」と伝える。「大丈夫です、任せてください」と力強い返事。この人で良かったと思う。感謝。 19時ちょっと前に下山を決め、準備を指示したにもかかわらず、森は30分近く経っても準備が終わらない。非常に緩慢な動作で、これはHRAスタッフの判断が正解か、との思いを強くする。19時35分、漸く馬上の人となるが、「手袋しとけ」というと手袋をするのにもたつく。見かねた誰かが手を出し、手袋をはめてやる。ふと、夜のヒマラヤを馬に後輩乗っけて歩いた奴って、そんなに居ない(というか、多分ゼロ?)と思いつき、気が楽になる。タンボチェの満月祭りが近いぐらいだから、月明かりでも十分道は見える。 10時半に漸く診療所へ到着。経緯を説明し、ロブチェのスタッフが書いてくれた診療記録を見せる。 バランス歩行、血中酸素濃度測定、聴診、問診、等を一通り行う。血中酸素濃度はすでに83まで回復している。ほっとする。診察結果としては、「すでに深刻な段階は越したようだが、まだバランス歩行が出来ていない。脳障害に効果のある薬を服用して、しばし酸素吸入を行い、今夜はどこかのロッジで安静にすること。明朝再度診察に来てください」とのことであった。「キミは夜間仲間が降りるのに同行してきて正解だ。サーダーだってもちろん頼りになるけれど、どうしても命の重さがわからないところがある。それに何かあったときに後悔しなくて済むしね」といわれた。 酸素吸入を終えた森を連れて、サーダーが手配した宿に向かう。12時を回っていたが、小屋のお姉さんが起きて待っていてくれ、「食事はどうする?飲み物は?」と聞いてくる。森がラーメンなら食べられそうだというのでラーメンを頼む。湯たんぽと水を準備させてベッドに入る。ラーメンは結局一口しか食べられず、残りは高田が頂く。診療所のスタッフに「夜間も時々様子を見ること。変なことを言い出したり、様子がおかしかったらすぐに連れてくるか、歩けないようなら呼びに来てくれ」と言われていたので、時々様子をうかがいつつ眠る。 ■2002年10月23日(水) ●● 伊勢・吉田の行動 起床して森の顔を見るがあまり変化がない。8時頃を目安に診療所へ。昨夜と同じスタッフによる同様の診察。血中酸素濃度は69で、悪くはないものの昨夜よりは下がっている。彼曰く、「峠は越したと思うが、とにかく早く降りるのが一番だ」という。ダイアモクス、下痢止め等をもらい、診察料を支払い、事故証明と領収書を作成してもらって小屋に戻る。キッチンスタッフがすでに到着していたので、吉田の様子を聞いたところ、「ノープロブレム」という。伊勢氏に伝言を残して先行して出発することとする。実際は全然違う事態だったことがすぐに判明するのだが。 ゆっくり進んでいるとペリチェの小屋のお姉さんがやってくる。サーダーに何か告げている。目がチラチラとこちらを見ている。いやな予感がする。 「高田さん、吉田さんがまた調子悪くて、馬でペリチェまで下ったらしい。どうする」と、サーダー。とにかくサーダーをペリチェへ戻すことにする。 お姉さんは言うことだけ言うと一緒に来た仲間と歩き出す。「どこ行くの?学校?」と聞くと、「タンボチェのお祭りよ」と言ってさっさと行ってしまう。こちとらその手前のデボチェまでも危うく、もっと手前のパンボチェに泊まろうとしているのに。現地人は恐ろしい。と思いながら歩いていると、向こうからなんだか見たことのあるネパール人のおばさんが歩いてくる。「だれだっけ?」と思っているとおばさんの方から、「サー、今日はどこまで」と聞いてくる。思い出した、このおばさん、ゴラクシェプの小屋のおばさんだ。一昨日泊まって、昨日の朝見かけないと思っていたら、こんなトコへ遠征してきていたらしい。「ひょっとしてタンボチェのお祭り?」と聞くと、そうだという。ペリチェのお姉さんよりうわ手だ。昨日の朝ゴラクシェプからタンボチェに移動し、今朝タンボチェを出てゴラクシェプに向けて帰る途中だそうだ。「帰りはさすがに2日かかるのよ〜、あら、そちらなあに?高山病?」と、いたって気楽におっしゃる。消え入りたいだろ、モリ。ゴラクシェプ〜タンボチェ〜ゴラクシェプを3日だぞ、3日。 ショマーレで休憩し、しばらく行ったところで副シェルパが追いついてきた。吉田は何とか歩いているらしいが、今日はパンボチェが精一杯だと思う、とのこと。了解してパンボチェを目指し、13時過ぎにパンボチェに到着。昼食をとっていなかったので焼きめし等を注文する。庭で待っていると、今朝診療してもらった英国人スタッフがタンボチェ方面から歩いてくるのを見つける。聞くとタンボチェのお祭りからの帰りだという。 高度順化がうまくいってしまえばこんなものなのかもしれない。彼だって8時半頃までは森を診察していたのだから、9時頃から歩き出してタンボチェを往復して今ここを通過したということになる。 現役2名の件が大変だったので深く考えてなかったが、よく考えてみると高田にしても、あれほど苦しかった登りの距離が、下りは異常なまでに近いことをうすうす感じていた。地図上の村と村の距離が、登りと下りでは3:1ぐらいの距離に感じられる。登りはピッチを切るたびに、○○村はまだか〜と思っていたのに、下りはちょっと歩いて顔を上げると、もう次の村にさしかかっている感じがする。 出てきた焼きめしを急いで掻き込み、吉田の様子を見るために再度上へ向けて出発。歩き出してそれほどしないうちに、降りてくる伊勢氏を発見。時間も遅く、これから食事の準備をすると遅くなりすぎると感じ、今日は回復日と決め、小屋泊まりとする。食堂でゆっくりと休み、十分すぎるほど飲食してから就寝。漸くみんな回復してきた様子。 ■2002年10月24日(木) 好きに飲み食いしてぐっすり眠ったせいか、みんな相当回復している様子。もちろん高度が下がったことが最大の要因なのは間違いない。 出しなにサーダーと打ち合わせ、今日はモンジョまで下らないと明日がキツイ、と言われていたのでモンジョをめざして出発。みんな元気なので結構はかどる。タンボチェまでの登りも順調にこなし、祭り明けの広場で休憩。相当大きな祭りらしく、広場の中央に臨時の売店まで出来ていた。苦しかったタンボチェの登りは、今度は単調な下り。サーダーと話をしていると、「このペースなら今日はナムチェ止まりでも良いと思いましたので、さっきテント部隊にそのように伝えました」とのこと。飛行機にさえ乗り遅れなければ[8]、こちらとしてはナムチェの方が魅力的なので、「だめだよ、勝手に決めちゃあ」といいながら顔がほころぶ。午後3時過ぎに漸くナムチェに到着。 お茶が済んだら早速乾杯に出かける。もう下りだけなので心配は要らない。行きに目をつけていたカフェで、泥酔だけ気をつけて、ビールで乾杯。しばらく呑んでないのと高度で酔いの回りが早い。缶ビール5本ほどでもうみんな酔っぱらっている。一度戻って食事に手をつけ、折を見て再度乾杯に出かける。その後伊勢と高田はメールチェックに出かける。 お茶の前にメールをチェックに行った森から、三戸田OBの遭難を知らされる。 ■2002年10月25日(金) 今日はルクラまで一気に下山する日。歩き出しは行きに苦しめられた急登を逆にひたすら下る。パクディンで昼食後淡々とルクラまでの道を行く。なぜ歩いているのか忘れかけた頃に、ルクラに到着。突然エベレスト街道を歩き通したという実感がわいてくる。街道入り口で集合写真を撮影。 サーダーが、「お疲れ様でした。今日は私が宿代を払いますので、宿泊まりにしましょう」という。テントを張るような場所がないのも一つの理由だろうが、ありがたく受けることとする。 夕食はコックからのお祝いで、地鶏の唐揚げが付いていた。宿の人もおもしろがって、地酒を出してくれた。コーヒー酒とのこと。グラスが8割ぐらいになるとすぐ上に注ぎ足してくる。サーダーに、「明日は空港に7時チェックインですから、起床は5時半です」といわれ、しぶしぶ部屋へ引き上げる。 ■2002年10月26日(土) 指示通り早起きして空港へ。カトマンズはまた霧で、3時間も待たされて離陸。 カトマンズのホテルに入り、隣接された日本食レストランで盛大にパーティー。吉田は天丼と天ぷらソバと天ぷら盛り合わせをむさぼるように食っていた。見ていて涙が出そうになった。 山行を終えて 今回久しぶりの本格的な天幕行動ということ、初めての高度への挑戦ということで、不安ばかりが先行して始まった山行だったが、とにもかくにも3人の同行者を得ることが出来、また結果としてほとんどの行程を踏破することができた。終わってみると、天幕行動とはいえ食事その他ほとんどは同行したキッチンチームが行うわけであるし、そもそもテントの設営、撤収からして、我々の行動にあわせてポーターがやってしまうのであるから、大名旅行に等しい山行であった。また、シーズンピークということもあり、ほとんどの小屋が営業を行っており、緊急避難的な意味も含めて、心理的安全度は比較的高かったと言える。 以下に、今後同ルートをトレッキングしようとする人のための参考となりそうなことを記しておきたい。 【小屋泊まりか、幕営か】 今回4人幕営の費用は$55/人・日。事前の見積もりでは、ロッジ泊まりなら$50/人・日であった。 人数の増減により多少変わってくるが、アンナプルナ・エベレスト周辺はシーズン中ならロッジが完備されており、食事等も体調や好みに合わせて選べる。一般トレッカーが歩くルートを忠実にたどるだけなら、安くて手軽なロッジ泊まりの方が快適と言える。一方、BCに一泊したいなど、一般トレッカー向けの施設がない場所を訪問したい場合などは、幕営するより他に方法がない。また上記2エリア以外の地域、たとえばカンチェンジュンガ周辺等はロッジ自体が整備されておらず、幕営中心のトレッキングとなるそうだ。 高田は前回のアンナプルナは完全ロッジ泊、今回はサポートチームに任せきりの完全幕営をテストしてみたが、ロッジの利用に支障がある場合は別として、普通のトレッキングであればロッジ中心の方が便利であると感じた。また欧米人トレッカーには、ガイドとポーターだけ雇って一応幕営道具を持たせ、ロッジのある場所ではロッジを中心に利用し、時に幕営を織り交ぜる複合型で歩いている人が少なからず居た。 【高度と順化について】 エージェントも何度か口にしていたが、80歳近い人がエベレストに登頂する昨今、BCまでは時間をかければたいていの人が行ける、というのがこちらの一般的な見解のようである。我々も今回感じたことだが、とにかくゆっくり歩いて順化に失敗しないこと、時間を十分にかけること、これがカギのようである。 高田の個人的見解としては、フィットネスクラブなどで体力測定の自転車こぎをやらされた後に一時的に酸欠状態になることがあるが、あれと同じことが時間をかけて起きているのが高山病という感じがする。 すなわち、歩行中は調子が良くてゼエゼエ言いながら快適に飛ばすものの、実際には細胞レベルで酸欠状態が続いており、行動をやめて食事をするぐらいの頃になってジワッと体全体が酸欠になり、頭痛などが起きるのではないか、というのが体感というか実感である。従って「細胞レベルでも酸欠にならないように行動する」、言い換えれば徹底的に有酸素運動に徹する、というのが高田見解である。 具体的には、いわゆるロングスローディスタンス走行(以下LSD:時間をかけてゆっくりと長距離を走行する)をしているつもりで、スピードよりも呼吸の安定と行動の継続性を重視し、呼吸が乱れない程度のスピードで、出来るだけ連続して歩く、ということになる。ゼエゼエ言いながらスピードを出して、ちょっと行っては立ち止まり、呼吸を納めたらまたゼエゼエ言いながら歩く、というのは、一部高度順化が出来てしまったと思われる欧米人等がやっていたが、順化する前は得策ではないと思う。ゆっくり、ゆっくり、と思って歩いていても、傾斜・勾配が増すという以外に、高度そのものがあがっていくので、精一杯ゆっくり歩いていたつもりでもしばらくすると鼓動が増え、呼吸が乱れてくる、ということは頻繁に起こる。このときはさらに歩くスピードを落とし、端から見ると進んでいるのか止まっているのかわからないぐらいの速度になっても、呼吸の安定を優先する。この意味では、筋力と気力の有り余っている若い人間が高度順化に失敗しやすく、逆にゆっくりしか歩けない老年層の方が順化のための行動には向いているということにもなると思われる。 このほかに言われたのは水分をとにかく十分に補給すること、ダイアモクス等の薬品も有効に利用すること、調子が悪いと思ったらすぐに高度を下げること、等であった。水分は呼吸で大半が失われていくので、血液の粘性度を落とし、体内の老廃物を頻繁に輩出する(=排尿を促す)、薬品はこの痢尿効果を促進するために利用し、それでも調子が悪ければとにかく高度を下げろ、というのがHRAスタッフを始め出会う人たちの指導であった。「高山病は誰にでも普通に起こることで、正常な体の反応であるのでそれ自体を過大に考える必要はないが、そのために命を落とす必要もまた、ないのです」と、HRAで森を診察してくれた英国人医学生が言っていたのが印象的であった。 【食事について】 今回完全西洋型の食事体系で、トレッキングと言うよりは海外での食生活への対応力が明暗を分けた。伊勢・高田はいろいろな国で業務を経験していることもあり、口に合わなくてもとりあえずなんとか食事をしていたが、現役2名は全く手をつけないことがしばしばあり、体力低下の一因となっていたと思われる。 この意味でも、ラーメンやカレー、スパゲティなどのメニューが豊富にそろっているロッジを利用するメリットは大きい。また、キッチンチームの持参している材料でうどんや肉じゃがを作ったことがあり、多少料理の心得があった方が良いかもしれない。 今回ナムチェバザールに売っていた醤油をキッチンチームに調達させて持参したが、高度が上がっていくと食欲そのものが落ちてくることもあり、とりあえず出てきたものを食べる上では非常に重宝した。カトマンズであればみそも醤油も普通に販売しているので、食事に不安があるなら購入して持参しておくと後で助かる。 余談であるが、ネパール在住の日本人がかかる病気で一番多いのが下痢である。 水や油が合わない下痢もあるが、バクテリアが原因の下痢もネパールでは普通であるので、下痢止めは一般の薬品の他に、細菌性の下痢に対応したものを持参するのが良い。国際協力事業団カトマンズ事務所に勤務している保健衛生の専門家によると、「たとえカトマンズの一流ホテルのレストラン内であっても、生野菜、生水は絶対に口にしないように関係者に指導している」とのことで、ましてトレッキング中のクッキングチーム、ロッジなどについては、いくら煮沸してあると言っても高度による沸点の問題もあり、出来るだけ避けた方が賢明と思われる。ただしあまり神経質になるとそちらから下痢をしたりする。 【ツアー会社等】 今回は高田のつてで現地ツアー会社にて手配をしたが、カトマンズにはトレッキング斡旋会社がたくさんあるので、ガイドブック等を参考にして選択する。日本人専門でやっている会社も多数あるが、早大山岳部出身の大津氏がやっているコスモトレックが、経験・取扱量ともにナンバーワンである。ただし、日本人向けのサービスが充実している反面値段も張るので、どのようなサービスを期待するのか明確にした上で各自ご検討頂きたい。 附 記 今回ルートの大半をこなし、ナムチェバザールに下山してきた時点で、電子メールのチェックに言った森君から三戸田OBの訃報を聞いた。 現役時代、高田は貧乏学生で、宝塚市逆瀬川の寿司屋で深夜までのアルバイトに精勤していたが、卒業が決まって間もないある日、この店に三戸田OBがフラッと姿を見せた。以前からこの店に来て頂いていた方が三戸田OBの同期生(藪内OB)で、「藪内んトコに来たついでにちょっと寄ってみたんや」とのことであった。一時間ほど食事をされ、お勘定を済ませて帰られる際に、「タカダ、ちょっと」と私を呼ぶ。何だろうと店の外に出て行くと、あの小さな目をショボショボさせながら、「キミのことはいろんな奴から聞いとんのや。山も学校もよう頑張ったな。これは少ないけどボクからの気持ちや」と、キチンと封筒に入れられて封印してある金一封を頂いた。OB会等でお会いしたことはあったし、一度は夏合宿の慰霊碑山行に同行したこともあったとはいえ、山岳部の後輩というだけでわざわざ宝塚まで足を運んで激励して頂いたことに感激したことを覚えている。寿司屋の主人も、「カンガクいうたらカッコつけたボンボン学校いうイメージやったけど、山岳部は違うんやなあ。気持ちエエ人やなあ」としきりに感心していた。 今高田が従事している道路工事は大成建設との共同施工であるが、大成の営業担当者は三戸田OBが参加された73年のRCC南壁登山隊サポートルートからのサミッター、石黒久さんである。今回高田はKGACへの一つの恩返しの意味も含めて本トレッキングを計画したが、その終了間際にナムチェバザールで三戸田OBの訃報を受けたことに、山のつながりというのか、ある種の感慨を禁じ得ない。 合掌してご冥福をお祈りしたい。 (文責:高田 英明) [1] タメル地区 言わずとしれたカトマンズの毛唐御用達安宿地区。以前はニューロード付近が安宿街で、ハシュシュ常習者がたむろしていたらしいが、世界的なヒッピーブームの消滅と薬物追放の機運により安宿街がタメルに移動し、健全な貧乏旅行者(?)の町となっている。 [2] パクディン 空身で実働3.5時間だった。ただしこれもかなりゆっくり歩いて。現役が本気でとばせば1.5〜2.0時間で到着するのではないか・・・? [3] 打ち合わせの失敗 これはサーダーのミスなので、食事代はすべてサーダーが支払った。 [4] ドゥード河 ドゥード河はこの上流でさらに左股本流と右股のイムジャ河に分かれる。ドゥード河はゴーキョピーク方面のゴツンパ氷河を源流とし、イムジャ河は広くローツェ、アマダブラム方面の氷河から水流を集めている。エベレストのクーンブ氷河からの水流はロブチェ河となってイムジャ河に注ぐ。ドゥード河はこのままルクラを抜け、シッキム、カンチェンジュンガ方面からのアルン河、ランタンリルンを水源とするスンコシ河とタライ平原で出会ったのちインドへ抜け、更にガンジス河に合流する大水系で、タライ平原に設置された水門を仮に全開にすると、インド中が水浸しになると言われている。 [5] ガモウバッグ 密閉された人身大の高所救命バッグ。中に高度障害で危険状態にある患者を収容し、外部から強制的に空気を注入することでバッグ内の気圧を急激に下げる。現在高度から1500m降下させることが可能で、このとき森のしていた高度計付時計はほぼ2000mを指していた。 [6] ヒマラヤ救助協会(HRA) Himalaya Rescue Associationは、ボランティア医師・医学生を主体とする高山病患者対応中心の援助組織。東京医大診療所と同じ建物となっていたが、実質的にはHRAが主体的に活動を行っており、近年建て替えられた診療所は全額英国政府からの無償援助によるもの。医師・医学生はまずボランティア協会に登録し、医師は数年、医学生は1ヶ月から2ヶ月の期間で抽選により配属されるとのこと。日本の学生も抽選で配属決定されたらしいが、辞退したとのこと。ネパールは治安情勢が悪化しているので、「役人」の判断でそうなったのだと、高田は勝手に想像する。 [7] バランス歩行 まず普通に立つ。左足つま先の前に右足かかとをぴったりひっつけるようにして一歩前へ。次は逆に右足つま先の前に左足かかとをぴったりひっつけるようにして一歩前へ。これを尺取り虫のように連続しながら、バランスを保って歩けるかどうかをテストする。もともとはアメリカの酔っぱらい運転判定の方法。 [8] 飛行機 ルクラからカトマンズへの便は、前日の午後2時までに空港窓口に出頭し、リコンファームが必要。ただし本人である必要はなく、サーダーやシェルパの代理申請も可。このときは電話が使えなかったので、サーダーはフライト前日の2時までにルクラに到着するために、いろいろと考えていた模様。 |