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初めてのヒマラヤ エベレスト街道トレッキング 鮎川 滉 期 間:2003年10月12日〜11月2日 トレッキング最終日、Luklaにおいてサーダー及びポーターへの「ささやかな慰労会」の席上、彼等が心をこめて合唱してくれたネパール民謡の一節…♪レッサン ピリリー ♪レッサン ピリリー ♪ ウデラザンキ ダンダマバンジャン ♪レッサン ピリリー〜・・・〜 の軽快で心地よいリズムは私の耳から離れない。この素朴な歌声はトレッキングを共にした仲間一人ひとりの顔とオバ−ラップし私の胸から何時までも消えることはないであろう。 永年懐いて来た"夢"の実現と"心魂"から満足に浸った22日間に及ぶ「神々の棲家」ヒマラヤ山麓への旅の日々であった。 1日目(10月12日:日) 関空待合室でネパール国への渡航56回目におよぶ藤木高嶺先輩に偶然お会いする。
今回は「河口慧海」の足跡調査のためMustangへ入山とお聞きする。早速、"飲料水と肝炎"に注意するようにと忠告を戴く。Kathmandu(標高=1317m)に接近する機窓より夕日に映えるMakalu(標高=8463m)、Everest(標高=8848m)、Cho Oyu(標高=8201m)のジャイアンツ群を見る。Everestの前衛の黒い塊がLhotse(標高=8516m)。超一流の舞台俳優がスポットライトを浴びアンコールに答えるような豪華絢爛さである。
ネパール時間20:20(日本時間23:35以降ネパール時間)、「ホテル・山水」(オーナー辻斉氏、日本山岳会員。著書に『魅惑のヒマラヤ』(楓工房出版)他、ネパール山村支援に活動)には本会々員の高田英明君がネパール風格でロビーに待っていてくれる。彼はこの国に没入し日本への帰国は当面希望しないと言う。話は尽きず夜は深まる。満月。犬の遠吠えしきり。
2日目(10月13日:月) 鶏のトキを告げる声に目覚める。機内で一緒になったT県グループ23名(カラパタール隊10名、アイランドピーク隊12名、クムジュン訪問1名)は歩いて10分ほどのボーダナート寺院(チベット仏教)へ安全祈願。我々も誘いを受け同行する。
ホテルに戻り朝食後、"SanSui Treks and Expedition.Ltd."(森川列理事は日本側アドヴァイザー)社長のMr.Ganesh Man Lamaと今後の行程、レンタル品の確認及び当方の要望を打合せる。「No problem!!」と心強い。
市内の凸凹道に旧式のバス、タクシー、リキシャ、バタ公(オート三輪)が渾然と、盛んに排気ガスを撒き散らし無秩序にクラクションを鳴らし通行人へと警告するが殆どは馬耳東風。喧騒と土埃が舞い上がり道行く人はマスクで防御する人も多い。スワヤンブナート寺院の歴史的なネパール建築と神と人の木像などを拝観し、高台よりカトマンズ市内を一望し旧王宮よりタメルヘ。
Kathmanduの繁華街タメルの露地に入り数歩も歩かない内に、いたいけな少女は日本人と見て日本語で「これ安い!300ルピー!、250ルピー」と纏わり付き決して諦めない。
貧しい国情、生きぬく根性の逞しさを感じる。ネパール様式建物に入り情緒ある"Four Season"の2階テラスの一隅を占めネパール料理を摂る。午後パシュパティナート寺院(ヒンズー教)にて火葬に出くわす。風に漂う刺激臭と荼毘の薪よりはみ出したbodyの一部を目撃する。それにしても仏教とヒンドゥー教が混在し調和がとれているものだ。ホテルに戻り身体に付いた先ほどの臭いを和式風呂で洗い流し夕食。明日以降、トレッキング中14日間の禁酒に身体中の細胞にアルコールを沁みこます。外国トレッキングを数回こなす猛者連のT県グループは、高山病には禁忌の酒、タバコもお構いなく自由にやっている。 3日目(10月14日:火) 【Lukla(標高=2840m)14:00 → Phakding(標高=2610m)17:30】 T県グループのアイランドピーク隊(内女性2名はBCまで)は未だ明けやらぬ早朝6:00、オニギリをもってホテル出発。ゆっくり朝食を済ませ、我々のサーダーMr.Deependra(26歳、精悍な体躯=Kathmanduの大学出身のインテリ=主務は会計士だがトップシーズンはサーダーも務める)に引率され7:00ホテル発。トリプバン国際空港国内線は世界各国より約300名程のトレッカーでごったがえし、さしずめ人種の見本市である。大きなダッフルバッグはロビーに山積みされ人々はそれをぬって右往左往。外から響いてくるプロペラの轟音に振り向き腰を浮かす。ルクラ、ポカラ行きともに遅延し出発は予定より大幅に遅れ12:18となる。慌ててはいけない、先ずビスターリの慣習に順応しなくてはならない。チケットは当初スカイライン航空だが何らかの理由でYeti航空機に乗る。 綿を丸め耳栓とし飴玉をなめながら身を乗り出し俯瞰すると急峻な尾根に開拓された無数の畑が非幾何学模様を呈し点在している。日本の棚田は谷筋に開拓されているが、急峻な尾根を随所に開拓したこの段々畑は圧倒的なスケ−ルである。飛行高度は約2700mを維持し東進。山脈を越え狭隘な谷筋に入り両側の裸地の山裾をかすめ僅かな空間を巧みに旋回し間もなく小さな滑走路を目指しLukla空港へ突入する。今元氏の隣りに同乗した老ラマ僧は目を閉じ"オン マニ ペドム フム"と念仏を唱える。この間約40分ほどのスリルある飛行。
無事Lukla(標高=2842m)空港に着陸しタラップを降り振りかえると景観は一変し驚嘆すべき高度に三角錐の峰がすぐ近くに起立しそのスケールに度肝を抜かれる。これがヒマラヤの一角であり、まだまだほんの序の口である。空港には、副サーダーのMr.Asazal Tamang(24歳、カラパタール、エベレストBC、ゴーキョ等50回以上のトレッキングをこなす。ソロクーンブ地方出身)とMr.Paras Gautan(24歳、Sherpa見習)が出迎えてくれる。他にポーターMr.Pemba Tamang(18歳)及びMr.Lothrke Tamang(18歳)が早速我々の荷物(約35kg程)を巧みにパッキングし前額部に荷重の支点を取り、ゴム草履を履いて先行する。我々はLuklaのとある店で昼食を摂り小さな個人装備を背に留め、先行きに不安を抱きながらゾッキョの糞を避け一歩を踏み出す。
帰りを急ぐトレッカー達と交叉する。希薄な空気に彼らの息使いが伝わってくる。ChheptungよりGhatへはゆるい降りである。サーダーが指差す方向に高度差4000mに氷雪嶺Kusum Kanguru(標高=6370m)(その後Thamserku(標高=6618m))が目の覚めるような明るさで群青に輝いている。
一旦最低地まで下降しDudh Koshiの側岸を登り返すとPhakding"Sun Rise Lodge"(着)17:30。第一泊目のロッジである。快適なダイニングルームには長躯B.C(標高=5364m)〜Kala Patthar(標高=5545m)〜Gokyo(標高=5357m)と歩き廻ったスイスを始め各国からのトレッカーがパーティを開き歌や踊を楽しんでいる。トレッキングの第一夜に不安を抱きながら昂ぶる気持ちを押さえシュラフにもぐる。 4日目(10月15日:水) 【Phakding 8:00 → Jorsale 11:06〜(昼食)〜12:40 → Namche(標高=3440m) 15:32】 Phakding(発)8:00。トレッカーや荷役ゾッキョの列と何度も交叉する。"ピーィュー"とゾッキョ使いの鋭い口笛と彼に鞭打たれたゾッキョは白目を剥き、急坂の登下降点には緊張の為かいたる所に脱糞され、尿臭の刺激と混じった土埃はかなり応える。
Bengkar 左岸(着)9:16〜(以降行動中の休憩時間は概ね10分)。Chumoaの吊り橋を渡りMonjoのサガルマータ国立公園ゲート10:20〜。Tawaにて大きな滝。
天蓋から逆落としのこの滝は壮観。Jersale(着)昼食11:06〜12:40(以降行動中の昼食時間は1時間〜1時間30分)。
Dudh Koshi 吊り橋(着)13:18〜よりNamche Bazarへの坂を登り出す。第二屈曲点でエベレストが見えるとサーダーから聞き期待していたが雲が湧き残念ながらエベレストの初見参はならない。ナムチェへ向けて快調に足が伸びる。Namche(着)15:32。"A.Gロッジ"。ロッジ前は狭い路地が迷路のように伸び両側に露店がたち並ぶ。
早速お土産の下調べ、下部の広場はチベットからの商品が売買されるバザール。夕刻前ターメへの道を辿り高所順応。17:00ロッジ帰着。寒くは感じないが3階ダイニングで「チムニー=丸ストーブ」を囲む。マオイストの揺動で昨日から19:30(一昨日までは21:00まで)以降は外出禁止令が出されている。ここは外国、自戒が求められる。 5日目(10月16日:木) 高所順応日【Namche7:50 → Panorama Hotel 10:55〜(昼食)〜11:40 → Hotel Everest view(標高=3900m)→ Khumjung経由 → Namche 14:18】 から荷で出発7:50。Khumjungへ。 我々とサーダ−は40歳を越える年令差がある。彼等の元気旺盛な歩行速度を抑制する必要を感じ、朝のOne ピッチのみサーダーに替わりトップを歩き我々の歩行速度(心拍数115/分以下)をサーダーに直伝し、今後、このペースを維持するよう依頼する。しかし、二ピッチ目で交代し身体が温まり調子が出る頃に"休憩"の声を聞き、改めて30分ピッチを指示する。富士山の高度を超えのんびりゆっくり散歩気分で陽射し強い高原を歩く。
Syanboche飛行場を横切り"Panorama Hotel"(着)にて昼食〜 。Hotel・エベレスト・ビュー(着)12:20〜。このホテルは日本人がオーナーだが客は見かけず閑散としている。Ama Dablam(標高=6814m)の左、Nuptse(標高=7864m)の奥にEverstのピーク部分が大きく見え、この景観に圧倒され呆然となる。永年憧れ待ち望んだ写真ではない本物のピークを今目前にしているのである。感慨無量。
西に聳えるKawande(標高=6186m)は、Luklaで最初に度肝を抜かれた山である。
山の稜線は美しいがすでにLuklaで見た時より標高は1000mも上がりさして驚かないが眺める目線は頂上へのルートを取っ付きより目で追う。左からの稜線を伝い登るルートは頂上直下左側にナイフリッジがありこれに阻まれ困難。ピークに直接突き上げる黒い岩壁は大オーバーハングがありこれも手におえるものではない(日本人パーティが完登?)。この年令になってもピークを見ると可能性のあるルートを無意識に探ってしまう。現状の体力、技術では到底登れるものではないと判っているにも拘わらず…山を前に無意識にルートを探ることは我々の「サガ」であると、同じ様にルートを追う往年のクライマー今元氏と苦笑する。大景観を楽しみながらブラブラ歩く。 美しいKhumjung村を一周しロッジ(着)14:18。ダイニングルームにはスペイン娘がLobuche(標高=5018m)で高山病にかかってしまい、Kala Patthar(標高=5545m)からGpkyoへ向った友人を4日間ここに滞在し待っている所だと云う。高山病の予防方法は出発する前に充分研究し警戒しているが、その一つ、我々の「水分補給」はモーニングティに始まり毎食のスープと食後のコーヒー、レモンティなどそれぞれ大型マグカップで普段よりは多めに賄われている。行動中の発汗は少なく意識的な水分補給はつい忘れ怠たり勝ちとなる。今夜より利尿剤"ダイアモックス"服用(尾崎氏はDingbocheより3日間。鮎川は往路のみ。今元、松野両氏は未服用)。 6日目(10月17日:金) 【Namche7:45 → Lusiyasa10:52〜(昼食)〜12:48 → Tengboche(標高=3860m)15:14】 Namche(発)7:45。先行者の足許から微細な土埃が立ち昇る。乾燥した大気に粉塵を吸いながらの繰返しに鼻腔に違和を感じはじめる。Kenjomaの屈曲地点に70才の老人が腰掛け通行料を要求している。名はパサン・タルケーと云い付近の軟弱な地層を独りで修復していると説明を受ける。なるほど不安定な断崖より岩が転がり落ちそうなポイントである。谷側の崩壊地は堅牢な石積みが施されている。急いで通過する。
Phunki Tenga(標高=3300m)へ下降。吊り橋を渡り巨木の樹林帯の水車前(着)13:12。ここより右上がりのトラバースルートが延びこれを辿るとTengbocheである。樹林帯にビスターリを厳守し登る。Tengboche(着)15:14。この間、Phunki Tengaより約600mの高度差を2時間弱のペースで登った勘定になる。後続のトレッカーに道を譲ったが、既に4000mの高度は超えているものの呼吸も特段苦しくもなく高山病の症状はない。15年前火事で焼失したゴンバは修復され厳粛なお経が聞こえてくる。中に入り正座し、無事カラパタールに登れるよう祈願する。少年僧が左右の高僧にバター茶を注ぎ一服後般若心経に似た経を唱える。ありがたくお聞きするがお堂の中は寒々として床から冷気が背筋へと上がる。長々と続くが30分ほどで辞しロッジへ逃げ込みチムニーを囲み暖をとる。我々が夕食前のパルスオキシメーターを取り出し“動脈流血中酸素飽和度=Spo2"(座位状態)を計測しているとオランダ女性3名が自分達も測ってくれと人さし指を差し出す。数値を示し“NO Problem!”と伝えると安心してニッコリ微笑む。夜半満天の星空。
7日目(10月18日:土) 【Tangboche7:45 →Panboche(標高=3988m)9::45】 当初予定では高所順応日としていたが近くに適当な高所はなく明日の行程で通過するPanbocheまで標高差200mを歩くことに変更する。この2時間の山歩きは気持ちの良い散歩である。宿は“Ama Dablam View ホテル”。快適で落ち着いたロッジである。
アンクンガと名付けられた12才の少女は我々に近寄ってくる。利発な少女で一刻も惜しみなく家の手伝に立ち働いている。
徳篤そうなお祖父さんは1953年のエベレスト遠征隊に参加したと云う「ペンパ・チリ・シェルパ90才」である。目が不自由でゆっくりと物静かに歩き、チベット服姿に威厳と風格とを醸し出している。
「ネパールでは年寄りを余り大切にしない」と聞くが、アンクンガは祖父を大切に想っていると模範的な回答である。ネパールの男性の平均年齢は60才位と聞いていたので長老中の長老であろう。お父さんはペンパ・ツエリン・シェルパと云い、この春「インド軍隊エベレスト遠征隊」のクライミングシェルパとしてEverest(本年5月12日)とLhotse(5月22日)に連続登頂(ロッジの壁に勲章を受けた時の写真を掲示)を果たしている。現在アンナプルナに出掛けていて留守と云う。しっかりした家庭と見受ける。高所順応のため裏の岩峰4240m付近まで登る。堅い岩稜で歩き易い。谷間の集落は風がないが稜線の突起は風を感じる。11:39〜12:30。そろそろ日本食が食べたいと、持参した味噌汁パックと餅で昼食。夕刻予期していなかった電気がともる。1週間前に電気が設置されたと喜んでいる。 8日目(10月19日:日) 【Panboche7:45 → Dingboche(標高=4360m) 10:47】 Panboche(発)7:45。Imja Khola 右岸に沿ってトラバース道を登る。Ama Dablam(標高=6714m)の姿は変化し見なれた姿より厳しさが増す。Tsuro Og (標高=4135m)の吊り橋通過10:05。峠を越えるとDingbocheの集落と不規則に石を積み重ねたカルカが見え出す"Muntain Paradise Lodge"(着)10:47。
昨日と今日の行動時間は僅かに5時間である。日溜りに椅子を引き寄せ首筋が痛くなるまで周辺の山々を飽きずに眺めAma Dablamの可能性のあるルートを無意識のうちにまたまた探ってしまう。ロッジのダイニングにはヒマラヤ救助協会"HRA"(この施設の設立は、昔、この付近(Pheriche)で日本人トレッカーが一度に4人も高山病で死亡したからだと知った。医師達は全く無報酬)の講習会の案内が掲示されている。毎週月、水、金の午後3時より講習会が開催されると聞く。ここにも電気が設備され部屋は明るい。熟睡。 9日目(10月20日:月) 【高所順応日】(Nangkar Tshang Peak(標高=5100m)及びChhukhung(標高=4750m)へ) 辻氏(T県グループ引率)よりDingbocheの北に位置する尾根を登ると「絶景が眺められる」と薦められChhukhung方面への高所順応を辞し、副サーダーのMr.Asazal と別行動をとりNangkar Tshangピナクルを目指す(発)7:28。
Dingbocheより標高差750メートル。一つの試みが浮かぶ、66才の老骨と血気盛んな24才のsherpa の心肺機能差を比較する恰好?のチャンスである。パルスオキシメーターを持参し、標高が100メートルアップする毎にデータを採取する。SpO2値はほとんど差異はないが心拍数に違いが現れる。途中景色を眺めるため多くの時間を費やし3時間半を要し頂上(着)12:02。我々を追ってポーターのペンバとロータルケが息を切らして2時間弱の超スピードで登って来る。到着を待って二人のSpO2を計測するとほとんど変わらない(寧ろ彼等のほうが3〜5ポイント低い)が薄い酸素の中で彼等の脈拍数は少ない。彼等は先祖から幾百年もかかり獲得したDNAにより血中のヘモグロビン数の多さの違いであろう。
北西30kmに位置するCho Oyuと東30kmに望むMakaluの巨峰(その右に天気が澄んでいる時は100kmほど先にKangchenjunga(標高=8586m)も見えると聞いていたが…不明)。
また、Kali Himal(標高=7057m)より西に連なる稜線は見事なヒマラヤ襞を形成し氷塊はカールへと薙ぎ落ち荒々しいアイスフォールを形成している。
昨日、Dingbocheへと向う途中、この尾根の先に顕著な鉛筆の先のように尖ったピナクルが望まれていた。今それは僅かなギャップを隔て魅惑的な姿を現す。ルートを追う・・・その取っ付きまで登ることは可能と思えるが下降はザイルが無ければ自信がない。断念する。
諦めて岩陰に風を避け持参した二人分のラーメンを4名で分かち合い少しばかりを食す。非常用の"ようかん"も四等分に切って共に味合う。1時間ほど心いくまで景色を楽しみ、やがてガスが巻だし下山にかかる(発)12:55。チクン方面から高所順応隊の隊列を認める。ロッジ帰着14:30。
一方、Chhukhungへの順応隊のコースタイムは、Dingboche(発)7:45。Chhukhung 10:15〜10:40。ロッジ帰着12:20。ロッジの前にはT県隊のメンバーが12張のテントを設営しにぎやかになっている。彼等の夕食はカレーであり、辻氏の計らいで我々にも御裾分けをふるまって貰えることになる。日本風の味付けで美味しいが食欲を満たし得ない・・・ クーンブ地方のsherpa 達は、それぞれ付近の山を自分の山と称しているそうである。ちなみにここのロッジの主人にAma Dablamを指差し「貴方の山か」と問うと「みんなの山です」と・・・
更にアイランドピーク(標高=6186m)やその右奥にのぞく形の整ったピーク(アマラッア(標高=6635m)は「誰のものか」と再び問うと「みんなの山です」と拍子抜けする。15:00頃、Phericheより"HRA"のドクター二人が巡回診療に来て、一つ一つテントを覗き高山病発症者が居ないか聴き回っている。カナダの若い女性は足首を捻挫したとT県隊のテントに医薬品を貰いに来ている。辻氏より「馬に乗って下山したほうが良い」とアドバイスされても「No Money!!」と足を引きずり湿布薬を持ち上のロッジに引き上げて行く。 Nangkar Tshangを登行中、ヘリコプターが飛来し何度も旋回していた。ロッジに滞在しているスエーデン人は、エベレスト登頂隊の中から6名の隊員が遭難したので救助に向ったと云う。その後、辻氏の情報では1名遭難に変わったが…何処で入手した情報かは聞き漏らし…確認できない。 10日目(10月21日:火) 【Dingboche7:45 → Tughla(標高=4621m)10:15〜(昼食)〜11:15 → Lobuche13:50】 この高度に達し何らかの高度障害が出る頃なのだが、今朝の各人のSpO2(シュラフに入ったままの安静状態・仰臥位)は84〜87%と平均値より高い数値を示している。我々は依然として正常値以上を維持している。 Dingboche(発)7:45。長い高原を坦々と進む。尿意をもよおし隊より離れると、突然、緊迫感が直腸を襲う。岩の間に座り水溶性のポンを流す。今朝未明から腹部がゴロゴロ鳴っていたが痛みはなく放置していた。先行するパーティに追いつくと軽い「ムカツキ」を感じ始める。チューインガムを噛んで見る。吐き気、頭痛は全くない。ウィールス性の腸疾患の原因を考えるが思い当たるものはない。昨日5130mまで高度順応を果し、本日の目的地Lobucheの高度は軽くクリァーし自信を深めていたが、いよいよ来たか?この症状は高山病の兆候と認識せざるを得ない。急激な体調変化に戸惑う。Tughla(着)10:15〜(昼食)食欲減退。11:15(発)。Khumbu氷河のターミナルモレーンを登りきり鞍部に到ると風が吹き抜ける荒涼とした台地(着)12:30〜となりエベレストの生贄となったsherpa の墓石が立ち並ぶ。
'96年春大遭難にあったS・フイッシャーのひときわ大きな墓があり未だ南東稜の8350m付近で氷漬けになったいる故人と南峰付近で同じ状態のR・ホールを想う。河原に沿って進み巨石が積み重なり行く手を塞ぐルートを登り込むとLobuche(着)13:50。Lobuchはロッジが少なく宿泊の確保は難しい所である。サーダーは予め副サーダーのMr.Asazal を先行させ宿の手配に向かわせていたが交渉は上手く行かなかった様子である。サーダーは上部、石積みの新築ロッジに目線を送り「ネパール人を拒否している」と云う。「それは人権無視だ!」と答え、彼等との一体感を深めるためにもお粗末なロッジに宿を決める。
これが劣悪なロッジで我々の部屋は、コンクリートパネルを石室に立てかけたすき間だらけで窓は当然、屋根の一部をビニ−ルで塞ぐだけの外の冷気とトイレ(トイレの横の部屋?)の悪臭が入り込む部屋である。日溜りでも寒い。15:45、日差しは山の背後に落ち、羽毛服を着ても身体の芯まで冷え込む。カラパタールやBCを往復し帰って来るトレッカーの姿も周囲の寒々とした光景を反映し冴えない。暗い台所はテァール祭(ヒンズー教)で賑やかな音楽が聞こえるが汚れた毛布の仕切りを押し覗くと煤けた顔が並び、躊躇し早々にシュラフに逃げる。更に気温は下がり足許が冷たい。トイレの悪臭と階下の台所より不完全燃焼のガスが混交し悪臭を漂わせる。夜間何度か目が覚め夜明けが待ち遠しい。
11日目(10月22日:水) 【Lobuche7:50 → Gorak Shep(標高=5170m)11:28】 曙明にロッジを脱出し大きく外気を呼吸する。7:30陽光射す。サーダーやポーター達も昨夜は厳しい環境の中、さぞ辛かっただろうと伺うが全員いたって元気な顔を見せてくれるので安心する。Lobuch(発)7:50。右下には灰色の砂や岩石を被ったEverestとLhotseの鞍部から流れ出るKhumbu氷河の複雑な亀裂が見られ、ポットのような無数の穴は薄青を呈している。Pumo Riの南裾に少しばかり盛りあがった黒い岩山が認められる。これが我々の最終目的の丘"Kala Patthar(標高=5545m)"である。その低さに幻滅を覚える。ラテラルモレーンを二段(中間に沢が入る)登ると再びEverestの頭が遥かな高みに望まれる。真っ白なPumo Ri(標高=7138m)の端整な円錐も美しい。Pumo RiはG・マロリーが'21年(イギリスの第1次Everest探検隊)チベット側ロンブック氷河よりロー・ラ(標高=6006m)に立ちEverest南西面からの登路を調査した時、"クレア山"(長女の名前)と呼びこの名前が定着するといいがと妻ル−スに書き送っている山である。やがてPumo Ri(我が娘)の名称となった。そして「サウス・コルからの頂上攻撃は容易でしょう。しかし、サウス・コルに接近することは(アイスフォールが険しくて)ほぼ間違なく登攀不可能なようです」(『ジョージ・マロリー』D.ロバートソン/夏川道子訳)と報告している。彼は諦めチベットへと引き返した因縁の場所がすぐ其処にある。
砂地の広場が展開しGorak Shep(着)11:28。"Everest View Lodge"のサンルームは陽光が射し温かい。大きなチベット犬が午睡をむさぼっている。寝室は昨夜のLobuchでの一泊を思い最奥のロッジはさぞかし悪かろうと覚悟していたが予想に反し快適な部屋である。とうとう最奥のここまでやって来たぞ!!と家族に対し感謝を捧げる。トレッキングを開始し常にそうであったように午後からの低い薄雲は今日は認められない。 昼寝の欲求を我慢し、写真を撮るため14:00(発)"Kala Patthar"の中腹(5270m地点)まで出掛ける。
風強くエベレスト頂上付近は北側に雪煙(ここ数日雪煙は東側)が立ち昇る。15:00帰着。Mr.Asazal と松野氏はBC(標高=5364m)まで往復。12:35(発)→BC(着)14:55〜15:15→ロッジ(着)17:15。BCには1隊、15張りのテントがあったと云う。昨日から服飲している下痢止めが効き便秘気味。夜間の暖かさに明日の天候を心配する。霧の中夜の帳はおり、その後星空へ。 12日目(10月23日:木) 【Gorak Shep(標高=5170m)6:00 →KalaPatthar(標高=5545m)8:20〜8:35→ Gorak Shep9:45〜(昼食)〜11:45→Touglha 15:10】 暗いうちに目覚め、完全装備の羽毛服で防御しGorak Shep(発)6:00。黎明の中、高度を上げるに従いEverestの頭は大きく傾き我々に覆い被さる。6:20陽射しが頂上に反射し巨塊は一層荘厳さを益す。言語に表現できない。"Kala Patthar"頂上(着)8:20〜。
神々が住むというEverestは逆光、直線距離8km、高度差3300m!!。 風景は次第に潤み恍惚感に浸る。やっと自分を取り戻しメンバー、サーダーと感激の握手!!本日は奇しくも穂高に逝った故三戸田君の命日、因縁であろう。かって彼が取り付いた南西壁に向って"故人の霊安らかなれ"と祈る。Everestで展開された様々な挫折と壮絶なドラマが去来する…'24年に消息を絶ったG・マロリィーとA・アービン。'33年のF・スマイス、'52年のR・ランベール、'53年第1次アタック隊のエヴァンスとボーディロン、'82年厳冬期の加藤保男と小林利明、'83年日本人として初めて無酸素登頂を果し下降に中、南峰付近で消息を絶った吉野寛と禿博信、'96年営業登山のR・ホール、S・フイシャーと難波康子。そしてシェルパを含め幾多の犠牲者へとビデオの早や送りのように脳裏を駆け巡る。 周囲の山々より圧倒的に低いにも拘わらずこの稜線にも南西風が吹き抜け5色のタルチョはひるがえる。下山開始8:35。Gorak Shep(着)9:45。この計画を立ち上げ約1ケ年間、先ほどまで支配していた達成感や満足感は"虚脱感"へと変わってくる。風を避けロッジ裏の物置小屋でラーメンに餅を入れ満腹。Gorak Shep(発)11:45。Lobuch(着)14:40〜T県チームテント場に立ち寄り熱い紅茶を戴く。西の空を見ると山に入りこの1週間とは全く異なった日本の秋の空でも見かけない低い位置(ここは既に5000mの高度。成層圏の1/2に達している)に巻積雲が漂う。
荒砂塵は舞う。Touglha(着)15:10。霧に閉ざされる。 13日目(10月24日:金) 【Touglha8:00→Pheriche10:05→Panboche12:34】 小屋の外はすっかり霧に閉ざされ視界5m。昨夜よりの氷雨は未明雪に変わる。前庭のテーブルには積雪2cm。軒下には5〜8cmほどのツララが垂れ下がる。
サーダーは乾期のこの時期降雪は珍しいと云う。8年前の11月、インド洋に発生した季節はずれのサイクロンによりヒマラヤは予期しない大雪に見舞われゴーキョでの雪崩による大量遭難を思い出す。2〜3日このような天候が続き、その間"Kala Patthar"への登頂はおろかEverestを望むことはできないと云う。たった1日違い、もしも1日早くこの天候に遭遇していたらと我々の幸運に胸をなでおろす。サーダーは「この雪、Gorak Shep付近は2フィートほど積もりルートを捜すことは難しい、ヤクを先導させ踏み跡をつけてからでないと行動は危険だ」と云う。Touglha(発)8:00。トレッキング中、雨具を使うことはないであろうと思っていたが有効?に着装する。Dingbocheとの分岐より下道を辿るとモノクロームの世界となる。無力感を抱き下降を続ける。蕭々とした高原に3頭のヤクが不毛の大地に散らばりひねこびた草を捜している。別世界の中に迷い込んだ雰囲気であり下から登ってくる人はほとんどいない。全てが停滞し沈黙の世界と変わってしまう。小粒のアラレ降りやまず雨具を打つ。周囲の山々は全て視界より姿を隠し、先へと連なる道のみが現実を確認できる証である。荒涼とした道を黙々と歩きPheriche(着)10:05〜30分休憩。下降を続け吊り橋中央に立ち止まり流れを伺うと増水し白濁し荒れ狂ったように岩を噛み奔ぽんとして流れ下る。辿ってきた方向を振り返りEverestを捜すがもはや山一つとして見ることができない。近くの山裾さえ認められない。Syomare(通過)11:49。激流の水音がやがて遠のく高みへと登り返し、Panboche(着)12:34。例のアン・クンガは相変わらず忙しく立ち働いている。「アン・クンガ!」と声を掛けると輝く瞳で迎えられ暖かく嬉しい。昼食は持参して来た「ごはんパックとラーメン」で摂る。この悪天にやむなく目的を放棄し下山を余儀なくされたか、夕刻にかけ多くの下山者が雨に打たれ憔然とした姿で通りかかる。16時過ぎよりさらに雨激しくなる。今夜は我々だけのパーティがチムニーを独占し暖を取る。カラパタールに全員が揃って登ることが出来たことで会話は弾む。雨音、終夜続く。 14日目(10月25日:土) 【Pangboche 8:00 →Tenboche 9:50〜10:40 →PhunkiTenga 12:00〜(昼食)〜13:10 → Namche16:30】 ミゾレ降り続く軒下より香りある煙がただよってくるのでフランス娘に同道するガイドに話しかける。一斗缶にビャクシン?の葉を焚き燻している。「なぜか?」と問うと、空を指差し「Pray!天候回復を祈祷している」と云う。「日本では雨乞いだ?!」と全く対称的な因習に仏教文化の複雑な流れか又はシャーマン的な儀式かと考える…。ロッジ前の1張りのテントは雪を被って寒々としている。アン・クンガに「さようなら」を云おうと台所に入り彼女を捜すが既に出かけたあとである。今朝、布団を被って寝ている彼女に「起きろ!学校に行かなければならない!」と冗談を云うとフトンから顔を出し「今日は休みよ」と云っていたが…Panboche(発)8:00。雨の道はゾッキョの糞が水に溶けて流れ、もはやそれを避けて進むことは至難。ぬかるみを前進するのみ。Tenboche(着)9:50〜10:40。サーダーはカトマンヅの本社に電話するため通信室に向うがオペレーターの出勤待ち。やっと電話が通じルクラからの飛行機のリコンファーム(当初計画より1日短縮)と予備日をポカラで過ごすアレンジをMr.Ganesh man Lamaに依頼する。雨降りやまぬ長い下り道をPhunki Tenga へ(着)12:00〜(昼食)〜13:10。Sanasa(着)14:30〜。ここよりトラバース道が続く。尾根を幾つか回り込みそろそろNamcheも近かかろうと尾根の出っ張りで前方を伺うが更に次の尾根が続き辟易とする。暗い谷間に"ダフィー"と呼ばれるネパールの国鳥を見かける。暫く傾斜地で餌を漁っている姿は変哲もないが、滑空する姿は背中の白い模様と一瞬万華鏡を覗いたように極彩色のブルーの尻尾を目撃する。Gorak Shepで見掛けた鳥はこのメスであると説明を受ける。メスは肥っていて雷鳥に似ているが、細身の雄鳥はキジの姿である。 やや周辺は明るくなり山を見上げると雪線は5000m以上をまっ白くコーティングしている。Dudh Koshiを挟んだ対岸の峪筋に幾筋もの滝となって落下する様は壮観である。Namcheの"Everest Hotel"(着)16:30。雨止む。ここは水洗トイレが設置されている。夕食は二人の少女による民族舞踊を見物しながらビールを1本飲む。約2週間振りのアルコールは喉に染み入り、すぐさま小腸から血管に吸収され脳細胞へと運ばれ、酔いの早さに驚く。中央の食器棚には"日本盛"が陳列されているが、すっかりアルコールが抜け切った身体はそれを欲求しない。 15日目(10月26日:日) 【Namche 8:32→Monjo11:25〜昼食)〜12:25 → Ghat 15:20】 早朝"Everest Hotel"の庭でKawnde(標高=6186m)にレンズを向けていると一瞬山が動き出したかと錯覚に囚われる。左のルンゼよりシャワーのような雪崩が落下している。28日のKathmandu行き飛行機のリコンファームを、Sherpa見習のパラス君の役割とし先行出発6:00。本隊は(発)8:32。Dudh Koshi吊り橋(着)9:50。Jorsale(着)10:45。弱い通り雨が二度降る。国立公園ゲート(着)11:15〜。Monjo(着)11:25〜(昼食)〜(発)12:25。村の子供達が太鼓を叩きながら或いはラジカセを響かせながら♪ヨスレー♪ヨスレー♪と掛け声を発し家々の玄関先に立ち幾ばくかの喜捨を受ける。今は"ティハールの祭"の最中で、豊穣の女神を祭り、あしたの幸せを祈る(博打もお咎め無し)という。途中の広場にも6人の男女が踊っている。Phakding(通過)14:20。Ghat"ラマ・ロッジ"(着)15:20。道を隔てたサンルームには鉢植えに秋の花が咲きそろい馥郁とした香りが漂う。石垣には芙蓉のような大きな花が下を向いて咲いている。ロッジの老婆はお経を唱えながら「アイランドピークに登ってきたのか」と唐突に尋ねられる。一人のポーター(ドイツ人カメラマンに付随)が雑音の入るラジオを聞いているので明日の天気予報を訊ねると「天気予報は無責任」と横を向き取り合わない。 16日目(10月27日:月) 【Ghat 8:30 → Lkula11:40】 Ghat(発)8:30。本日はトレッキング最終日である。Lkulaまで標高差300mほどの登りであるが楽しみながら歩こうと話し合う。暖かく短パンで歩く。すっかり打ち解けたポーター達に質問したりネパール語を教えてもらいつつ登る。とある河岸段丘の広々とした畑に猿が2匹豆畑に隠れ盗み食いをしている。素早くもぎ取った豆を口に入れる仕草は愛嬌があるが、向こうの家に知らせてやったほうが良いよと云うと、全員は声を合わせ「"バァダル レ ケラウ カヨオイ〜"」と叫ぶ。さしずめ「猿が豆を食べているよ〜」と云ったところ。 Lkulaの"パノラマホテル"(着)11:40。トレッキングは全て終了した。感謝を込めて握手!!健闘を称え合う。 15:00よりお別れパーティ。
ネイティヴ・スタッフに敬意を表し上座に並んで貰い「皆さんのお蔭で無事にトレッキングを達成でき満足しています」と深甚の謝意を表し、まずは苦楽を共にしたスタッフにビールを捧げ乾杯する。彼等は節度を守って飲み、やがてネパール民謡を披露してくれる。我々4名も「空の翼」を合唱し返礼とする。想い出を語り合い和やかなパーティはやがて"チャンからロキシー"(アルコール濃度60度)へとエスカレート…高声響かせ議論白熱!。 サーダーやポーターを連れ出し静かな外のテラスで飲み直す。物静かな他国のグループは回顧に耽り最後の晩を惜しみながらグラスを傾ける。何時の間にかスコットランドからの若い女性が外気を求め近くの椅子に座り会話に加わる。ボーイフレンドはジャーナリストで彼は高山病に罹ってしまい、単独でカラパタールからBC及びゴーキョを廻ってきたと云う。モンブランは登ったがマッターホルンには登れなかった。とジョンブル魂旺盛な女傑である。また、日本の富士山に憧れているようで、「どうか?」と質問を受ける。彼女は山を心から愛するのであろう、室内に居る背の低い引き締まった体つきの男性を指差し、「ほら あのイタリア系の彼よ 彼がエクワドル人の"Ivan Vallejo" で無酸素でジャイアント14座を狙っているのよ すでに6峰は登ったクライマーよ」と云いながら彼のウエブサイトをメモして呉れる。「きっと世界の14峰を無酸素で完登するよ」と我がことのように話してくれる。 17日目(10月28日:火) 快晴の空にKaryolung(標高=6511m)は輝く。いよいよヒマラヤの懐を離れる時が来た。独りものおもいに耽っているとサーダーやシェルパ達が近寄り「シュート」を首に掛け祝福してくれる。抱き合って背中を叩き"お互いの健康と活躍を祈り再会を約し"別れを惜しむ。Kathmanduより一番機が飛来、雄姿を現す7:30。近くのLkula空港へ(発)9:23。カトマンヅ(着)9:52。ホテル山水(着)10:20。早速入浴。夕食はタメルへ、日本シリーズ"星野阪神"は接戦のうち負けたことを新聞で知る。次は20年後か?生きては見られぬ! Kathmandu(発)10:15。青空に白く輝くLangtang Himal山群 の山々。西に進みHimal Chuli (標高=7893m)、Manaslu (標高=8163m)(山座同定できず)山群の大パノラマが展開する。
Pokhara(標高=820m)(着)10:45。目線より6000mの高度差、25kmの至近に聖峰Machhapuchhre(標高=6997m)が聳えたっている。ルクラで度肝を抜かれたがこれは一層抜きん出た峰である。恐らく世界一の標高差で眺められる峰であろう。Pokharaの町の美しさは河口慧海師が『チベット旅行記』で「ネパール山中では甚だ美しい・・・ネパール第一の美しい都会でありましょう」と歌い上げている。 街は熱帯系の真紅の花(ブーゲンビリヤ等)が咲きそろい恰好のリゾート地である。
道路は舗装され土埃はなく並木が町の落着きを演出している。Kathmanduとは対称的で水清き湖畔の緑豊かな花咲き乱れるレストランでのんびり昼食を摂り、"Shangrila Village Hotel"へ、早速庭園に張り出たテラスでシーバスリーガルのオンザロックを楽しみ、ここで休養出来ることを喜び合う。
夕食のあと、プールサイドで演奏されるネパール民謡に聞き入る。心地よい風に吹かれトレッキングの疲れが解きほぐされて行く。 19日目(10月30日:木) ホテル(発)4:50。御来光と朝日に輝くMachhapuchhreや Annapurna(標高=8091m)、DhaulagiriT(標高=8167m)峰を見物するため、Sarangkot(標高=1592m)の頂上を目指す。駐車場より40分ほどの展望台までの登りに汗ダクダクとなる。やがて荘厳な黎明より6:20、東の雲間から大きな火の玉のような太陽が昇る。
北側の巨峰群は生憎のガスに隠れ見ることはできない。7:50ホテルに帰り朝食を摂り再び朝寝する。庭のヤシの葉がサワサワと心地よくゆれ酸素いっぱいの風がそよぐ。夢の中シャングリラ(桃源郷)に遊ぶ。午後から市内観光(省略)。 夕食は"Moon Light Restaurant"へ。小雨降る。 20日目(10月31日:金) Pokhara(発)15:20。Kathmandu(着)15:50。"Yak and Yeti"ホテルへ。高田君と彼の友人で現役時代には頻繁に行き来していたが卒業後は逢うこともなく、時を経て、偶然、異国のネパールで再会を果した西濱氏(甲南大山岳部出身=日本の測量会社に職を得てネパール駐在員として勤務。ネパール女性と幸せな結婚=結構"おのろけ"話を聞く)、遅れて奥田仁一氏(関大山岳部ヘッドコーチ='98年日本山岳会学生部Kangchenjunga遠征隊に本会々員大橋隆平君と共に参加し、強力なアッタクメンバーとして第1次頂上攻撃隊員に選ばれ登頂を果すが下山中パーティはバラバラ(2名遭難)になり、奇跡的な生還を果す、その時受けた凍傷の傷跡が鼻の先に勲章のように残る。'01年ナムナニ峰登頂『会報18号図書紹介参照』などヒマラヤで活動、現在ネパール語を習得中)と7名により "慰労会"を"Hotel KIDO 田村"にて高田君より催して戴く。日本の若者?達が遠く困窮するネパール国発展の為、力を尽くし活躍する姿に接し頼もしく誇らしく思う。三氏の今後益々のご活躍とご健康を心から祈念する。 21日目(11月1日:土) カトマンヅ市の南に隣接するPatan Durber Square観光(世界遺産)。昼食時、辻氏及びT県グループに会う。結局、T県グループはカラパタール隊、アイランドピーク隊共24日からの悪天候に阻まれ途中より撤退し目的を達成できなかったと聞く。猛者連は残念会でヤケ酒を飲みご酩酊である。また、隊員の内5名(一人は付添い)は往路の4000m(Dingboche)付近で高山病に罹りヘリコプターにピックアップされ救助されたとご苦労の多いトレッキングであったようである。午後、Mr.Ganesh man Lamaの招待を受け自宅訪問、美しい夫人は今年5月〜6月ご主人と共に来日した折り森川理事を介し既知である。"宇治の新茶"をご馳走になり客間で午睡。更にFarewell Partyは王室御用達の老舗"Bhan Chha Ghar"に於いて催され、格調高く美味なネパール料理に舌鼓を打つ。建物も150年の歴史を刻んでいる。食後、テンポの早いリズムに乗ったネパール舞踊を観覧する。 20:30いよいよネパールともお別れの時を迎え空港に向う。23:45発予定のRN411便は大幅に遅延。待合室にはアナウンス一つなく唯一のインフォメーションは発着案内板のTV画面の機械的な「RA411 23:45 Delay 02:30」のテロップのみ。 22日目(11月2日:日) 未明、4時間遅れて03:35飛び立ち、上海経由、15:20関西国際空港着。睡眠不足は老骨にはことのほかこたえる。 おわりに 今回のトレッキングは約1ケ年の準備期間を経て実行された。参加者4名はそれぞれトレーニングを積んで臨んだがDingbocheへと至る4000mの壁とKala Patthar5545mへのかって経験したことのない高度に対し不安を抱きつつ前進した。しかし、不安を解消し役立つアイテムは"パルス・オキシメーター"であり、表示されるビジュアルなSpO2数値は一目瞭然異論を差し挟む余地はなかった。我々は表示される数値に不安なく前進を続けることが出来た。更に、飲用する"水"には特に配慮しロッジで使用する料理用にまでペットポトル水を用意した。 他に、えてして山岳部出身者は、歳を重ねた今でも"自分を過分に評し、少々の不具合は無視し前進を貫く、極限に達しても尚且つ決して弱音を吐かない"性向を持っていることである。その為、お互いの体調を客観的に観察、確認し合うことが大切だと考えていた。また、装備、医薬品、予備食料など必要且つ充分な準備を整えて臨んだことも精神的な不安を排除する効果があった。尤も医薬品の殆どを使用しないままに残したが… 日本からのトレッカーのほとんどは、大手旅行代理店の募集により全国各地より集まり14〜15名前後のパーティを編成する。この場合、老人独特の頑固さや我侭がぶつかり合い精神的(病理的にも、高山病の一つの自己判定法にイライラする、怒りっぽくなるもある、他人の言葉を誤解したり反発を感じる等)な負担は決して軽くはない。通常トレッキングパーティのしんがりには必ず副サーダーが付き、どんなに遅く歩こうともそれは許される。しかし、余ほど強固な意志を備えていなければ"遅れると人に迷惑を掛ける"と考え無意識に歩行ペースが速くなるケースがあるのではないだろうか。また多人数パ−ティでは最低歩行者にペースを合わせる原則を維持することは難しいことで、結局、早い歩行にペースと呼吸を乱し、徐々に無理を重ね高山病へと進行するのではないだろうか。今回、我々と行程を同じくしたT県チームに高山病(肺水腫)に罹った人が4名もいた。彼等はヘリコプターで救出される羽目となった。個人差はあるが一つの要因として歩行速度(心拍数)に原因があると考えるのだが… 森川先輩には神戸登山研修所事務所の使用を始め説明会講師、ネパール国エージェントとのもろもろの煩雑な交渉と手続き等にお手を煩わせした。 南井先輩には、経験豊富な海外遠征から持てるノーハウを惜しみなく提供して戴き、特に高所医学書10数冊を送って戴き知識を深め、装備・食料品・医薬品等も最終チェックをお願いした。そして何よりも今まで氏が会報に発表された記事を精読し臨むことが出来た。 奥貫先輩には、ルート上の具体的な地名を挙げその対応を教えて戴いた。 又ネパール国在住の高田英明君には、Kathmanduから遠く離れた悪路を辿り4WDを駆って現場より8時間以上を要し二度に及びわざわざ我々を訪ねて貰い、然も帰国前夜は過分なもてなしを戴いた。この紙面をお借りし心から感謝申し上げます。 また、紳士的で信頼でき、且つリーズナブルな価格(大阪〜ネパール往復航空券代及びポカラ観光を含み22日間、総額一人約30万、大旅行代理店は50万以上)をオッファーして戴いた"SanSui Treks and Expedition.Ltdの社長Mr.Ganesh man Lamaにも感謝申し上げたい。 ヒマラヤへのトレッキングを思い立っても中々容易に出かけることは難しい。現役時代は仕事に追われ、リタイァー後の体力が維持されているこの一瞬のチャンスに巡り合い目的を叶えることができるものと思う。チャンスを与えてくれた家族に負うところも大である。感謝したい。 だが帰国後、時を経ず悪性の難病?に冒されれてしまった。青春期に一度罹った"ヒマラヤ恋?ウィールス”に再び… 以上 【参 考】 |