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回想の夏山 −称名平から奥大日稜線− 尾崎 進 この夏、称名の滝から奥大日に登ってきた。 京都を昼前に出て、夕方立山連峰を背にする大観峰キャンプ場にテントを張った。今元君の超特撰・大吟醸及び上撰純米生貯蔵酒「白鶴」の超特級を鮎川君得意の焼肉とニンニクで痛飲した。「七輪」に「紀州備長炭」を熾し“金網”上のロース肉の脂が垂れ落ち香りが漂う時、本当に肉は程よく焼けるものである。明日に備えて馬力をと贅沢な夕食である。 翌朝はいよいよ称名平から大日岳への登り、ここは私にとって3回目、47年振りになる。山岳部の新人として終生忘れることの出来ない「急登」である。(昭和31年夏山合宿で田中チーフリーダー以下15〜16名が劔二股での定着合宿に向けここを登った。藤本リーダー以下5〜6名の中堅部員は別働隊として白萩川から二股に入った。初日、まず称名平にトラックから降ろされた食料と共同装備の荷分けから厳しく辛い合宿がはじまった)。日本最大の落差を誇る称名の滝の右手に拓かれた八郎坂の屏風を立てたような岩壁を見て圧倒されたことを思い出す。我々はこの滝の左手、深く侵食され見あげる壁を「大日岳登山口」より登りはじめる。
歩きだすともっぱら足許の大きなオオバコと背の高いフキ、シダばかりが懐かしい。(独りでは立ち上がれない、16貫弱(60kg)のキスリングを担いでは首も上がらなかった。ただただ足許だけを見て必死に歩いた)。最初にバテた処もおおよそ「このあたり」と見当がついたが、そこは予想以上に早かった。今度は足どりも確かだ。 稜線への急登で、上からおりて来て道を譲ってくれた年配の登山者が「こんなところを登ってくる人には頭がさがる」と云ってくれたので私こそ恐縮して頭を下げた。約2時間で“牛ノ首”の見覚えあるブナの大樹の下についた。涼しい風が吹き抜ける樹々の間から弥陀ヶ原のすその向こうにどっしりと鍬崎山(2089m)が望まれた。この大きな山が私の目にしたはじめての北アルプスだった。(三回生の竹内氏がしょんぼりうつむいている私を見て「この山はむかし、佐々成正が金塊を埋めた伝説の山なんや、今も沢山の黄金が埋まってるんや」と面白く話してくれた。私は一寸元気をとりもどした。昼も随分すぎていて既に新人の幾人かは本隊より遅れてバラバラだった。その日ずっと付いていてくれたのは阿形氏だった。私は氏の強いこと、その山慣れた振舞いには感心し自分も早くこうなりたいと強く感じた)。今思うと体力的な疲労より、むしろ山岳部合宿独特のあの殺気だった雰囲気と、はじめて体験する北アルプスの大きさに精神的に圧倒されてしまっていた。まともなキスリングのパッキングの仕方、歩き方も判らない上、登山靴も全然自分のものになっていなかった。 牛ノ首からすぐ大日平の木道に出た(当時、木道はなく、滑りやすい溶岩台地のぬかる道だった)。見慣れた高山植物−チングルマ、ニッコウキスゲ、ミズバショウ−が美しく咲き乱れる中、特にワタスゲの可憐な群生は珍しかった。綿のような小さな白い穂が風にゆれていた。大日平がこんなに美しい高原であるとは記憶になかった。(この辺りもフラフラになって歩いたのであろう)。夕暮れの中でやっと上級生が「今日はここにテントを張る!!」と云った時、全身から力が抜けてしまったこと丈を覚えている。
この日は大日岳からガスがおりてきて、上に急いでも展望はきかないので慌てることもないと大日平山荘(その頃、旧山荘は雪崩に飛ばされ、その残骸が僅かに放置されていた)前のベンチで紅茶を沸かしコンデンスミルクをたっぷり入れ、乾パンとバナナでゆっくり昼食をとった。あとはこの高原をつめて右手の見覚えのある顕著な白い岩、さらに左手奥の突き立った岩壁を目指し、沢状のルートにそって急登を4時間かけて登った。眼下には今来た大日平とその前方に長大な弥陀ケ原が称名川にえぐられる様に横たわっていた。途中小雨もパラついてきたが、この高原を経て遥か雲海に浮かぶ薬師岳の堂々とした上品な山容にも目をうばわれた。(合宿2日目、こんな絶景も私は全然気がつかなかった)。称名平を出てから7時間で大日の稜線上のコルに着いた。 大日小屋の前のベンチには、ついさっきガスの中その日唯一大きな洋犬を連れて我々を追い越していったニュージーランドの46才という精悍な登山者が“ヘソ”を出した感じの良い美しい奥様と寝そべっていた。もう3時を過ぎるのにこれから奥大日を越えて雷鳥平まで行くのだとガスの中を元気に出発する。我々、外は風も強く寒いので早々と小屋に入った。中は以外と静かで6〜7人の男女中高年登山者が「明日はもう称名の滝へ下るだけ」と機嫌良く気楽に喋っていた。予想通り夕方にはガスが晴れ劔は堂々とした偉容を現してくれた。眼前の早月尾根は松尾平から1900m、2600mへと緩やかに高度をあげ、カニのハサミあたりから急激にその頂上にむけて競り上がり、正面の東大谷の雪渓は眼下の立山川へ垂直に落ちていた。遥か富山湾に消えていく毛勝、猫又の山稜も鮮やだった。
この小屋は今“ランプの小屋”と云うらしい。食堂の天井梁からぶらさがった10数箇のランプに火がいれられると室内は下界では一寸味わえない雰囲気となった。窓からは暮れゆく劔の切り立った西面が黒々と手にとる様に眺められた。我々はそれぞれがこの劔―特にチンネの岩壁―での“忘れられない登攀”や“悲しい遭難の悪夢”を胸に秘め、持参の“本醸造・銀嶺立山”で乾杯した。“ある新人”が夏山合宿の3日目の未明、この大日のテントから皆の寝静まるのを待ってただ一人、称名平へ脱走した。又“ある先輩”が春山合宿であの早月尾根の2600mのC2でシュラフを風に飛ばし失くしてしまったが、最終キャンプ三ノ窓からチンネの氷壁完登まで雪の中寝袋なしで堪えぬいたと昔の想い出をボソボソと話しあった。劔にまつわる話題は尽きない。 翌日は夜が明けると案の定強い風と雨である。午前6時前小屋を出た頃から降りだした雨は奥大日岳頂上への登りあたりからはげしく横なぐりの本降りとなった。濡れたハイマツの枝が全身にあたる。登路は沢となって流れる。弥陀ケ原から吹きあげる強風で雨と汗が目に入ってしみる。(新人の3日目も雨だった)。やはりこの荒天の大日稜線は今も昔も変わらなかった。しかし、なぜか気分は爽快だった。“山こそ違え、これが晴れてよし、曇りでもよし、富士の山、元の姿はかわりざりけり”かと独り苦笑しながら歩き続けた。突然「ドカン」と腹にひびいた雷鳴は幸い一度だけだったので助かった。大日小屋を出てから休みなし5時間で室堂に着いた。雷鳥沢はもう7月末と云うのにえらい残雪であった。地獄谷からの硫黄の臭いも懐かしく昔し通りだったが、はじめて見る「室堂ターミナル駅」の観光客の混雑には驚いて言葉もなかった。我々はひとまずバスに乗り弘法から八郎坂を称名平へ下る予定であったが、もう雨の中を歩くのは辟易とそのままケーブルを乗り継いで「立山ケーブル駅」へと一気に下った。 ここは昔“千寿ケ原”という駅だったのではなかろうか。下界はいつもの様に真夏であった。感じの良い登山駅の前の歩道に出されたテーブルで太陽を浴びて遅い昼食の“そば”で一息ついた。 広場の芝生に濡れたザックやヤッケを拡げて乾かしていると、「どこに登ってきた?」と独りの老人が寄ってきた。「称名の滝は下る道、そんなところを今頃登るのは100人に4〜5人、昔の学生山岳部出身者ぐらいのもの」と笑った。鮎川君が「我々も大学山岳部出身です。40数年前が懐かしく又、登りに来ました」と答えると、戦前から盛んに立山に登っていたと云うこの翁は昔を懐かしむ様に大日岳の方を眺めながら僅かに残った数本の歯を出して一層嬉しく笑ってくれた。又、「この下に良い温泉があるので是非入っていけ」と親切にも教えてくれた。我々三人は称名川に面した見晴らしの良い広々とした溢れる湯船を独占して三日間の気持良い汗を流した。そこは「Green View TATEYAMA“千寿の湯”」と云う立派な静かなホテルであった。 上高地とともに“観光地”と云うことでずっと避けてきたこの立山周辺に今もこんな静かな想い出深い山行きの出来る“奥大日稜線の山道”が昔のまま残っていることが何より嬉しかった。私はこれも山で苦労をともにした岳友とともに山岳部で鍛えられたお陰であると感謝しながら、心を残して“越中立山”をあとにした。 以上 |