個人山行・随想・研究

北海道の山と人 ―知床半島再訪と網走山岳会土谷会長―

尾崎 進

この6月17日、下記5項の目的を持って関西空港から北海道に出発した。

(1)知床再訪(羅臼岳〜硫黄山〜カムイワッカ縦走)と羅臼湖探訪
(2)お世話になった羅臼山岳会西井誠誘会長(誠諦寺ご住職)のお墓参り
(3)ルサ川河口・コブカリコタン再訪と日本最北東端“相泊”探訪
(4)斜里岳登山と網走市内観光
(5)網走山岳会土谷匡会長とのはじめての出合い―会長の別荘“天恵庵”と網走山岳会の山小屋“愛山荘”訪問

以上、欲張りすぎた計画も、この全行程同行ご案内頂いた土谷会長のお蔭で(1)項、(羅臼平→硫黄山→カムイワッカ縦走)以外は全て実現出来た幸運な山旅だった。メンバーは1959年(昭和34年)春山合宿―知床半島積雪期全山縦走隊員18人の中の5名、山本宏、今元厚彦、近藤雅是、鮎川滉諸氏と私である。(以下敬称略)

6月17日

正午前に関空を飛びたった飛行機は名古屋から北上して残雪の北アルプス上空を飛ぶ。鳥海山から右に折れ三陸海岸から太平洋に出て2時間もすると北海道襟裳岬の上空である。機窓から原生林のすそのに拡がる美しい緑の畑を眺めていると右手前方に海別岳・遠音別岳からひときわ高い羅臼岳が姿を現す。硫黄山、知床岳を経て岬へと連なる懐かしい山々は屏風の様につったっている。おおよそ2時間一寸で女満別空港である(学生時代は大阪駅を夜行の「日本海」で発ち、青函連絡船に乗船し4日目の夜、やっと羅臼の村に着いた頃を思うと隔世の感である)。空港で初めてお会いする土谷会長は一足先に東京から着いていた近藤と我々を迎えてくれた。私は丁重に御挨拶と思っていたら駆け寄ってきてがっちり握手された。会長は身体も大きかったが、その手も大きく堅かった。私は一瞬に初対面を終えホットして安心した。会長の大きなワゴン車に荷物を積み込むと全員が乗れない程満載となった。早速網走郊外の“天恵庵”で熊よけスプレーと携帯ガス(機内持込禁止)を補充してもらってウトロの奥“岩尾別温泉ユースホステル”へと車を飛ばしてもらった。トーフツ湖の原生海園を突っ走る。車の窓を開けるとさすが爽やかな北海道の風が心地よかった。やっと北海道に来ることが出来たと嬉しかった(夕食は鮭のはいったお椀にあふれるイクラの丼だった)。夕食後皆で岩尾別川がオホーツク海に流れ込む河口へと散歩した。寂しい海岸には数頭のエゾシカが我々を気にしながら草をはんでいた。帰途、滔々と流れる岩尾別川の奥には夕暮れの羅臼岳がどっしりと聳えていた。

岩尾別ユースホステルから羅臼岳(右)
岩尾別ユースホステルから羅臼岳(右)

のんびりもしておれない5人は、狭い部屋に帰って明日の山行の荷分けを廊下にまではみだして慌しくやった。北海道も結構暑いと思っていたら部屋には暖房用のストーブがついていた。この間、会長はユースホステルの主人と連れだって、明日下山予定のカムイワッカの滝まで車のデポに走ってくれた。「道中、鹿が出て車を飛ばせなかった」と帰ってこられたのは夜の8時を過ぎていた。本当に初日から遅くまでと恐縮した。

6月18日

「北海道の山は1日12時間歩かなければ・・・」に午前3時に起床して朝食抜きの出発である。しかし知床の夜明けは以外と早い。木下小屋裏の登山口を登りはじめた午前3時40分にはもうヘッドライトはいらなかった。

熊除けのピーピーとなる会長の笛の音が初夏の樹林に心地よく響きわたる。朝夕と聞く熊の出没も手慣れた会長の先導で安心出来る。途中、山道に沢山の大きなアリの行列を見た。「ここ知床のヒグマはサケ、トド、エゾシカと餌は豊富だが夏にはこのアリも大好物」と教えられる。ミズナラ、ハルニレ、トドマツの樹々をぬって右手に海別岳と遠音別岳。左手に羅臼岳に連なる硫黄山への稜線が朝日に輝いてすばらしい景観である。辺りの鳥の囀りもすみきっている。この力強く感じる美しさも冬が厳しいからだろうか。大きな山々からオホーツク海に落ちこんでいく樹海の深さにも驚嘆する。1時間一寸で“弥三吉水”に着いた。ここではじめて冷たい清水で顔を洗い、おにぎりの朝食をとった。

ここからは背の低い曲がりくねったダケカンバの平坦な“極楽平”の道に入る。冬から一気に夏を迎えてチシマザクラは満開である。

チシマザクラのトンネル
チシマザクラのトンネル

あたりのナナカマドの白い花も新緑にさえ、あざやかである。やがて“銀冷水”に着いたが、そこは雪の下にかくれていた。会長は「ヤァー驚いた、今年の雪は凄い、5、60年振りかなあ」と独り言を云われた。

羅臼岳をめざし大沢雪渓をつめる
羅臼岳をめざし大沢雪渓をつめる

そこから羅臼岳の頂上を頭上にあおいで雪べったりの大沢をつめた。最後の登りでは大事をとって途中岩陰にそれてアイゼンをつけた。羅臼平の“木下ケルン”に着いた頃には一寸風も出てきてその平は寒々としていた。クナシリ島の峰々が根室海峡をはさんでかすみの中にボーと浮かんでいた。左手眼下には急な山稜の谷間に懐かしい羅臼の街が眺められた。平びっしりの低い這松の樹下にはキバナシャクナゲが美しく咲き始めていた。ここから見覚えのある堅い岩肌の感触を楽しみつつ、小一時間で頂上の岩峰に着いた。

羅臼岳頂上
羅臼岳頂上

近藤はザックから酒をとりだし、故人となった佐藤富士男君と松村伸治君にと、その頂上の岩にそっと酒をそそいだ(1959年羅臼隊の山本、佐藤、近藤、松村の4名がここをトレースしていた)。前方には遠音別岳と海別岳、右手足下には羅臼湖が遥かに望まれた。振り返ると羅臼平を経て三ツ峰のかなたにサシルイ岳、オッカバケ岳、知円別岳から、この山稜は大きく左に折れて硫黄山へとするどく長く連なっていた。私はこれからあの硫黄山まで今日中に行けるだろうかと心配した。頂上をあとにずっと時計を気にしておられた会長は「これから飛ばさなければならないが、このペースでは途中でビバークになる。今日はこのまま下ろう」と諭された。「もともと若手でも羅臼の頂上往復をカットしなければとても硫黄山を経てカムイワッカまで一日で下るのは無理だから・・・」とも慰めてくれた。

我々は大きな岩から落ちる水滴を空っぽになったペットポトルの口に苦労して入れた。真上から落ちる岩清水は風にゆれ、なかなかうまく入らなかった。随分時間がかかったが、この間に硫黄山まで行けなかった無念を晴らした。全員が羅臼の頂上に登れたのでよかった。この日は幸い下りの極楽平でバッタリ大きな雄のエゾシカに出あっただけで熊には出あわなかった。木下小屋に下りたのは午後1時40分だった。小屋の主、法量武さんは会長を見て「カムイワッカから早かったなあ」と笑いとばしてデポした車の回収に小屋の車を貸してくれた。私は会長に恥をかかして本当に悪かったと慌てて会長に付いて山本とカムイワッカへの車回収に急いだ。残った3名は木下小屋でゆっくり温泉につかり法量さんの斜里岳北壁初登攀の武勇伝を聞かせてもらった。ウトロの漁港の酒場でイカ、タコ、ウニと新鮮な刺身を沢山仕入れ、この夜は、6人にはぜいたく過ぎる網走山岳会の“愛山荘”のローソクの下で豪勢な宴になった。

6月19日

愛山荘は知床横断道路から一寸入ったエゾシカの遊ぶ樹林の笹原の中にある(全然道もなく誰も気がつかない)。もともと宇登呂鉱山の現場跡に網走山岳会二代目の矢野会長が丁度40年前創られたものと聞く。小屋のすぐそばに豊富な清水が湧きでているのが嬉しい。いつも早起きの今元が「昨夜の羅臼の星の輝きはすばらしかった」に目を覚ました。今朝は、ゆっくりワカメのスープに沢山の餅をほうり込んで食べた。一晩、お世話になった愛山荘のノートに全員で感謝の一筆を書かせてもらって、羅臼湖へと小屋を出た。エゾシカの遊ぶ静かな沼から昨日登った羅臼岳を眺める楽しい散歩だった。背丈をこす這松からの花粉の飛散はすごかったが幾つもの沼から眺める羅臼岳の頂は本当に堂々としていた。静かな沼の端にはミズバショウが咲きはじめていた。なだらかな知西別岳を背景に我々だけの静かな羅臼湖畔の板敷きに座りこんで皆で大きな一枚の知床半島の地図を広げて会長に春山合宿の想い出を聴いてもらった。正にそこは“桃源郷”だった。

羅臼港から“相泊”へと急がねばならない。海岸からは知床岳に連なるポロモイ台地にせりあがる稜線にトッカリムイ岳が美しく顕著だった。途中、懐かしいルサ川河口の番屋“コブカリコタン”の海辺に腰を下ろし、それぞれ辛く厳しかった合宿を追想した(番屋と海がこんな近いとは思わなかった)。つい右手のルサ川の河口には“真水で行水”のカモメが群がって浮かんでいた。目の前の海では一艘の小船がウニを盛んに獲っていた。私は記念にと足元の大きな貝殻を一枚拾って相泊に向かった。

コブカリコタン番屋前
コブカリコタン番屋前

日本最北東端というこの相泊は、番屋のまわりを一匹の痩せたキタキツネが餌をさがしてうろついているだけの寂しい海岸だった。

我々は“熊の穴”という食堂で会長おすすめの熱い“昆布ラーメン”に舌鼓をうった後、羅臼の街に引き返した。

相泊「熊の穴」
相泊「熊の穴」

いよいよこの山旅の大きな願いであった羅臼山岳会故西井誠誘会長の誠諦寺にお邪魔した(流氷で岬へ船が出られず18人が何日も泊めて頂いたお寺である)。大きな玄関を開けると会長のお孫さんに当る西井義人様が待っていてくれた。立派なお座敷の床間に西井会長ご夫妻の大きなご遺影を持ち出してくれたので我々はすぐ昔にかえった。本堂でお世話になった御両人に一人ずつご焼香し半世紀前のお礼を述べて頭を下げた。長年の宿題を果させてもらってホットして庭に出ると本堂の前の古い桜の樹が昔のまま根をはっていた。

誠諦寺本堂(お世話になった西井誠誘師のお孫さんと)
誠諦寺本堂(お世話になった西井誠誘師のお孫さんと)

お寺の奥様から全員に羅臼名産の“とろろ昆布と食塩(知床らうす深層水-=ラウシップ)”を頂いて寺を辞した。羅臼の街は昔の面影がなかった。ラウス川上流の登山口にある“熊の湯”につかってこの日の汗を流した。緑の樹々に囲まれた露天風呂は快適だったが、湯は熱すぎて飛び上がった。会長は「ブッシュ漕ぎで付着した“山ダニ”の駆除には、これが丁度良い湯加減だ」と云われた。この夜は網走郊外に建つ会長の別荘“天恵庵”にお邪魔した。

6月20日

昨夜自宅に帰られた会長は約束の午前5時、我々を迎えに来てくれた。「今日の斜里岳は天気さえもてば簡単な山だ」と言われる。少々雨が降ってもこんな機会はそうないと全員は腹をくくって車に乗せてもらった。曇ってはいるが北海道の朝は本当に爽やかである。右手トーフツ湖の大草原の向こうには冬スキーの藻琴山が低く横たわり、左手釧網線にそった草原の堤にはエゾスカシユリの黄色、ハマナスの真紅が美しく咲き始めていた。車はここから右手に折れて広大なジャガイモと麦畑の道を一直線に飛ばした。斜里岳は正にこの原野のはずれに孤高を誇って屹立している立派な山である。登山口は清岳荘の裏からはじまる。どうやら天気は持ちそうである。いきなり感じの良い残雪の一の沢に入り岩をへつっての渓渡りで下二股までに一汗かいた。ここは昔小屋があったが雪崩で壊されたと聞いたが、さすがにおびただしいダケカンバの倒木の散乱に目を見張る。この冬は大変だったらしい。我々は右手の沢をつめて幾つもの滝の登りにかかる頃、1時間も後に出発した網走山岳会のパーティは元気に我々を追いこしていった。私は先頭の屈強なリーダーに会長にお世話になっていること、愛山荘に泊めて頂いたことのお礼を云って頭を下げた。パーティの中、4〜5名の女性のみなさんは、はつらつとして感じの好い人ばかりだった。滝の岩は堅くて滑らないのと両岸にはみだすダケカンバの太い幹が結構ホールドになって実に気持ちの良い登りだった。

斜里岳へ
斜里岳へ

時々下を眺めると滝の飛沫が一気に原野に落ちていくさまは北海道ならではの登攀を感じ嬉しかった。やがて滝の水流もきれる残雪の上二股でブヨの襲来を受けながら最後の登りに備え乾パンの昼食をとった。そこからは一寸急な登りだったがすぐ馬の背に着いた。あとは足元に咲くチングルマ、満開のエゾノツガザクラを眺めながらガレた岩稜を登り小さな祠の前を登りきるとすぐ頂上だった。先行した網走山岳会のパーティは既に南斜里岳に向かって遥か稜線に眺められた。天候は下り気味、期待していたオホーツク海からの知床の展望は残念ながら見えなかった。

斜里岳山頂
斜里岳山頂

私は丁度斜里側三井コースから登って来られた釧路山岳会々長に「この人達はむかし冬に知床半島全山縦走をやった関西学院大学山岳部の人達です」と紹介された。遠藤さんという寡黙で気の良さそうなこの方は親しく笑ってくれた。下山は上二股から新道を熊見峠にむけ暗雲に追われて走る様に下った。這松の端のエゾイソツツジ、エンレイソウ、ゴゼンタチバナと美しい高山植物が咲き競う気持ちの良い登山道だった。しかし、峠からの新道は険悪で樹木の枝にぶら下がるように下る箇所が何度もあった。途中、前を行く近藤が右手の沢筋に大きな落石をしてひやっとしたが、下の沢に人気がなかったのは幸いだった。この下りでパラパラと来た雨は下二股に下りたとたんにいよいよ本降りとなった。アラレの様に叩きつける大粒の白い雨は辺りの樹々を打ってその音もすごかった。雨もこれだけきつかったら気持ちが良かった。叩きつける残雪の渓筋を右に左に道をとって下るのも結構楽しかった。前を行く誰かが一寸増水した渓にはまった。私は下二股でヤッケのズボンをはかなかったので下半身はずぶ濡れになった。この凄い雨も清岳荘に下るとバッタリ止んで太陽が輝きだした。鮎川は「北海道の山はゆるくないのぉぅ〜(北海道の方言で、合宿中この言葉が大流行した)」と冗談をとばした。会長はすぐ下の清里温泉に連れて行ってくれた。豊富な温泉でずぶ濡れで冷えた身体をゆっくり温めた。この夜は天恵庵で会長は直々に“ジンギスカン・パーティ”をやってくれた。玉ネギ、モヤシを添えた“マトン”は冷たいビールで幾らでも食べられた。楽しい北海道最後の夜だった。深夜、テレビの天気予報では近畿地方に向かって台風直撃の報道がされていた。明日の飛行機は飛ぶのであろうか・・・

6月21日

早朝からテレビは四国より再上陸した台風を報じていた。天恵庵の広い裏庭で濡れた登山服をザックに詰めこんで帰る用意をした。山を下る日はいつも寂しい。全員でお世話になった山荘を綺麗に掃除して天恵庵を辞した。会長は網走の能取岬へと車を飛ばしてくれた。広大な原野の岬の白い灯台は特に印象的だった。オホーツク海に切れ込むこの岬の岩壁が冬期、網走山岳会のアイスクライミングのゲレンデらしい。羨ましい限りである。この日もこの天候では知床の山々は見えなかった。市内の海鮮物店に連れていってもらい夫々が家族への土産を買った。その店は“北都”という洒落た親切な老舗だった。その後網走監獄博物館の玄関を回って静かな美しい網走湖を右手に眺めながら女満別空港に着いたのは正午前だった。お世話になった土谷会長に皆で深々と頭を下げてお礼を云った。会長はそっと全員に先の北都で知らぬ間に買ってくれていた“新鮮なタラコ”をお土産にと渡してくれた。心配していた飛行機は定刻通りに飛んだ。我々は全ての行程を無事終え満足して帰路についた。

土谷会長と天恵庵のこと

2002年10月号『岳人No.664』
<地域研究・網走山岳会の知床半島関係年表(土谷匡氏調べ)>に我々の記録が載った。

1858年(安政5年)5月 松浦武四郎.根室側から知床半島を一周し斜里に至る
1904年(明治37年)6月陸地測量部正木照信.カムイワッカ〜硫黄山、カシュニの滝〜知床岳
1922年(昭和2年)7月北大山岳部木下弥三吉.網走町有志と知床探勝
成蹊高等学校成瀬岩雄ほか5人.コタキ川〜知床岳
1930年(昭和5年)8月北大山岳部原忠平.木下弥三吉.ルサ川〜知床岳
1931年(昭和6年)4月羅臼山岳会鈴木音治ら羅臼岳
1952年(昭和27年)12月京大山岳部伊藤洋平隊長ほか.知床岬〜知床岳.知円別〜硫黄山.羅臼町〜羅臼岳
1959年(昭和34年)3月北海道学芸大札幌分校片岡胖.知床岬〜海別岳
関西学院大岳山岳部尾崎進ほか17人.半島縦走
(以上抜粋)

私はこれら著名で勇敢な先人の記録の中の一つに我々の山行も記録されていることが嬉しかった。それに土谷会長の“知床の今後の課題”※―何としてもこの知床の自然を守っていかなければならない―という情熱にも共感し感銘した。

早速、記載の感謝に対して、『網走山岳会創立40年史』を頂いた。そこには初代木下弥三吉会長、二代矢野健治会長、三代土谷匡会長とずっと引継がれた“知床と人”を愛する網走山岳会の心が全会員にしみわたっていて感動する立派な本だった。又、同時に会長から関学の記録が手許になく困ったとの本音も書かれていた。(どうやら関学の山行は、1959年4月3日付け北海道新聞の北大山岳部酒井和彦リーダー“厳冬の知床半島縦走記<羅臼〜知床岳>の記録に併記されていたことも判った)

我々は根室側から登り、オホーツク側は全く不案内であったことを詫び、『DAS EDELLWEISS ]X1966年』の正式記録をお送りした。これが会長とのご縁である。

天恵庵は網走市郊外の静かな雑木林の中にある。全く手造りの小屋だとお聞きしていたが、中々がっちりした山荘である。小さな玄関のドアーをくぐって明るいガラス張りの応接の奥が居間である。外壁は黒い板で落ち着きが良い。右奥のランプの下には2本の門田のピッケルが輝いて架けられている。左右両面の板壁には大きな知床と日高の地図がべったりと張られている。正面、大きな窓のある壁の上にはおどけたふくろうや雷鳥の大きな壁掛けが楽しい(これは畦地梅太郎の絵であろうか)。

手前右隅のストーブの回りにはよく乾いた薪が並べられている。左のあいた天井のあたりの壁には残雪の遠音別岳、羅臼岳等数枚の写真が架けられている。いずれも会長自信の傑作である。背中には備え付けの二つの本棚だけでは入りきれず台所まで本箱が二つはみだして並べられている。

エドワード・ウィンパー『アルプス登攀記』、モーリス・エルゾーク『処女峰アンナプルナ』、ジョージ・ハント『エベレスト登頂』、ヘルマン・ブール『8000mの上と下』、ガストン・レビュファ『星と嵐』、ハインリッヒ・ハーラー『白い蜘蛛』、又猪谷六合雄『雪に生きる』、伊藤秀五郎『北の山』、坂本直行『原野から見た山』と、その全てが山岳名著であり、私の青春の血を湧かせてくれた山の古典の数々である。雪の中、この部屋でストーブに薪を焚きながらこれらの本を読んでいたらどれだけ楽しいだろうかと羨ましく思うと共に、この人は正に私が憧れる“ソーローの森の生活”を地で行く人ではあるまいかと想像した。朝、広い庭に出ると背の高い見事なシャクナゲの樹に薄いピンクの蕾が膨らみ、これからジャム造りに忙しいと聞くブルーベリーの実が白い粉をふいて沢山紫にふくらんでいた。片隅の畑には行者ニンニク(アイヌ葱)がいきよいよく緑の葉っぱを広げていた。

土谷会長は1936年(昭和11年)生まれ、今年67歳である。今も冬になると湧別原野85kmのクロスカントリー・スキー大会に毎年出場し、完走される正に北海道の“野生と知性”の岳人である。この夏も「知床半島オホーツク海岸(テッパンペツ川上陸→知床岬)踏破(ゴムボート・遊泳・滝の突破・何度もの熊とのかち合い)探検」<編集子注>の羨ましい便りをもらった。

私は幸運にもこの方と知り合えたお陰で半世紀振りに当時の岳友と青春の山“知床”に再訪出来たことを感謝せずにはおられない。

最後は土谷会長の“知床の今後の課題”で終わらせてもらうことにしよう。

  1. 知床岳は「地の涯」。知床に最もふさわしい山である。まずはウナキベツ川周辺の樹木についているテープをはがすボランティアを募ってはどうか。
  2. 知床のトイレ問題は切実で対策を急ぐ必要があると思う。国道保全、自然環境維持の観点から山のトイレ問題を考えてもいいのではないだろうか。森林管理センターの業務に山のトイレ管理を加え、トイレの必要箇所に夏季用のバイオ式か、ヘリによる搬送式仮設トイレを設けたらどうか。
  3. 人が住んでいない山奥の砂防ダムは不必要だと思う。太古の昔から山は「崩れる」ものであり、人間の力で防ぐことは不可能である。ダムを作っても土砂は堆積するし、ダムの水位が上がり山肌を崩している姿を目にする。

ダムはオショロコマ、サクラマス、カラフトマス、シロザケの遡上を防げ、その結果、地球上のオオワシの半数が越冬できる環境、世界最高の繁殖率をほこる知床のオジロワシは絶滅の危機にあり、全世界の半数100羽が生息しているというシマフクロウや、ヒグマたちを頂点とする食物連鎖が崩れて、多様な生物の生態系を維持できなくなってしまう。そういう意味でも、これ以上、ダムを造らないことを願うばかりである。

無垢な知床を次の世代に残せるか。それは我々に課せられた責務である。

奇しくも来年6月、この知床半島は世界遺産に登録されると聞く。

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