個人山行・随想・研究

『梅里雪山 十七人の友を探して』を読んで・・・

鮎川 滉

山麓の住民にとって「神聖な山」へ、著者は日中友好梅里雪山合同学術登山隊(第三次)の一員として頂上を目指した。村人と対立し阻止されながらも登頂まであと僅かにまで接近した。しかし登頂を確信し一旦C3に戻った時、天候悪化により撤退の命が下される。その決定に対し激しく抵抗しているのは、この山で逝った仲間へ捧げる志が瓦解した反応であろうか。

梅里雪山はその6年前(1991年1月3日、夜半の交信後消息を絶った)、日本の海外登山史上稀有の17名の尊い生命が失われた。遭難から7年目、山麓の放牧民により遺体と遺品の一部が氷河上(著者は「聖山が不浄なものを吐き出した」と表現)で発見された。最初の発見から6年間クレバス帯で捜索を続けながら山麓の人々と生活を共にし、農耕する姿、豊穣な土地から恵まれる収穫、美しい花々、また聖山一周の巡礼を通し村人と信頼を築き上げていく。厚い雲霧から垣間見る優麗俊厳な鋭鋒、静かに清水を湛える神秘的な氷河痕跡湖、周囲には高峰が林立しているはずだが何ひとつ見えず、不気味なほど静まり返る「見えない力」の気配から恐怖を覚え、計り知れない自然の力に畏怖心を抱いていく。「聖山とはなにか」、「生を実感するために登っていた山で死ぬことが本望であるはずはない」と呟き喘ぎながら仲間を拾う運命の巡り会わせに物質文明社会から大自然の懐へと入り感情の起伏を経ながら自らの魂と聖山との合一化を求め彷徨する。

聖山一周の巡礼に旅立ち、吹雪を突いて標高4000メートルを越える峠で危険を冒して巡礼するチベット仏教の信者達は、何ゆえに「途中で死んでもいい」と覚悟しながら進むのか。ただひたすら「現世の幸せのため、来世の幸せのために」とお経を唱えるだけであろうか。危険な峠から吹雪をついて下る巡礼者の列、途中で休む母と幼い子供の背から彼らの凝縮した精神的内面を浮彫させ読み且つ見るものに多くの示唆を与えてくれる。

聖山に向かって「アツラッソロー」と叫ぶのは仲間に向かってやり切れない悲しみの叫びのように思える。やがて著者は「“カワカブ(梅里雪山の現地名)”に登るということは、山を信じる人々と敵対し、その信念を踏みにじることではないか」、「人が踏み込んではならない神の領域を決して侵してはならない」、「この山は、命を奪う魔の山であり、命を育む豊穣の山であり、心のより所となる神聖な山だった」と登る行為から崇め祈る対象として導かれていく。

「遭難には本当の区切りはない。さまざまな節目があるだけで、それを一つ一つ越えていくだけだ。現実を背負いながら前へ進んでいくしかない」と最後に残された一人の捜索と確認まで心に傷を残し懊悩は続く。この遭難が引き起こした運命のせつなさと壮絶さはページを繰るごとに崇高な精神性を文章と写真により表現し、本書を手にするものにあらためて“山とは何か”の疑問に答えようとしてくれる。また、我が国の「名山」と呼ばれる山々とチベットの「聖山」との間に“山岳宗教・山岳崇拝”の面で共通の思想があることも興味は尽きない。

参照:http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/

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http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/news-tankoubon.html

★写真展 「チベットの聖山 『梅里雪山の世界』」 2月〜4月
http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/news-06shasinten.html

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