個人山行・随想・研究

上ヶ原から劔岳へ

山岳部に在籍した会員にとって一度ならず聞いたことがある先人の偉業、我々山岳会会員が誇りうる、「上ヶ原から劔岳への徒歩登山」について、永野寛氏のアドバイスを受けた南井英弘氏により今般貴重な資料が発掘された。

南井氏は昭和何年頃か?どのコースを辿ったか?途中宿泊地は?、など不確かな条件を執念で調べられ(国会図書館等)、ようやく1941年(昭和16)8月10日及び11日付け大阪毎日新聞朝刊より以下の記事を発掘された。

KGACのOB、OGなら是非知って欲しいとホームページ掲載を指示された。尚、難解な漢字、かなづかい、漢数字を現代体に替え掲載します。

注:1貫=3.75kg 、1里=3,924m

行程百十二里 背に八貫余
関学の劔岳行軍登山(上)

“歩け歩け”とわれわれ関西学院山岳部員四名は兵庫県仁川の学舎を出発点として越中劔岳に至る全行程112里の長距離野営の途にのぼったのは7月11日だった。

草鞋の足を踏みしめて瀬田の唐橋を渡り中仙道の松並木に参観交代(ママ)の昔をしのび木曾路を越えて富山から目指す聖峰3千bの劔岳に22日目の8月1日やっと自分ただ一人感激の登頂が出来たのである。頂に立って過ぎ来たりし道をふりかえるとき、すべては苦難また苦難の道だった。

食料、天幕、寝具はじめ必要品八貫余を背負い肩に食い込む重みに歯を食いしばりながら雨の日も歩き続けた。汽車は1日に何回となく追い越して行く、3日目大阪平野を横切り笠置山脈にさしかかったころ4人とも一様に足に血豆をつくっていた。一足毎に頭まで突刺されるようだ。単調にあきるわれわれを慰め激励してくれるのは変わり行く景色だけ、往き交う人も草鞋がけで大きなリュックサックを背負っているわれわれを変な目付きで眺めて行く、瀬田の唐橋を渡り中仙道にかかるころようやく足の苦痛も薄らいできた。16日鈴鹿の愛知川に一夜の夢を結んだ。

翌る17日朝珍しくも青空が覗いて、鈴鹿の山々を威圧するように伊吹山が眼前に現れた。鈴鹿山脈の北端、摺鉢峠で湖国へ別れを告げ、関ヶ原に入る。300年前の此処はまさに世界大戦の縮図であったに違いない、攻防戦術の限りをつくして竜虎相争った山も、丘もわれわれの訪れた時はすでに薄暮の中に静まり返って虫の音が昔を話すのみだった。垂井を過ぎて濃尾平野へ入ると長良川の流れは心地よい涼しさを感じさせる。

大垣、岐阜を過ぎて20日山崎に着く丁度行程半ばだ。今まで大体平地だったが此処からは随所に山越えをしなければならない。いよいよ山に近づいた。装備と食料を再検討したが、心配なのは米だ。重量の関係から半分しか用意できなかったので当然不足になるから朝飯は抜き、昼は芋で代用したのである。これならどこでも購入し得た。

食料の胸算用を終わった時、思いもかけない残念なことが起こった。それは一行の一員廣澤君が「父危篤」の報せを受けて帰らなければならなくなった。初志貫徹の意気に燃える彼の心を察するに忍びなかったが、躊躇する彼に断固帰阪を命ずるほかなかった。ここで一人減った。物足りぬ心の残る三人は重い足を引きずりながら飛騨川を遡り22日飛騨川との分岐点中麻生に着く。

注:1町=109メートル

行程20日 遂に唯一人で登頂 真情・身に沁みた木曾路の老爺
関学の劔岳行軍登山(下)

一夜の露営に空地を借りるべく傍の農家に許しを請うた。快く許されたのみならず、風呂を沸かそう、飯も炊こう、雨が降ったら戸を開けておくから入れと、身に沁みる親切、飯を済ましてその家を訪ねると、一家は老爺、4つになる孫、その若き母の3人ぐらしである。坊やは無邪気にわれわれと戯れる。老爺は明治、大正、昭和と渡る時代の波が木曾の山奥を如何に変えたかを話して尽きなかった。ふと気づくと勇士の写真が飾られている「勇士の家」厳粛な気持ちになって改めて問えば、この坊やの父こそ、今大陸の戦野にあり、坊やも父の顔を知らぬとのこと、気づかざるとはいへ、われわれの護るべき家にお世話をかけたことを悔い、坊やのために勇士の武運を祈った。

あんた達は旅の人じゃ、しかし同じ日本の国の人、だから我の家、彼の家はない。自分の家だと思って休んで下され。

といった老爺の言葉が今も耳の底に聞こえるような気がする。このような温かい心には木曾路へ入って至るところで遇った。三町も行ってから馬を飛ばして道の誤れるを知らせてくれた馬方、俗塵にそまぬ木曾の人達こそ本当の日本人だといえる。

高山市までの5里の木曾路は5日間、26日の夜遅く豪雨の中を高山市に入った。ここも町の中とて適当な露営地がない。仕方なく路傍の荒れ果てた御堂の縁に雲助よろしく一夜を明かしたのだ。半月近くの強行軍に一度は馴れた体にも疲れが出てきたのだろう、そこえ前夜のびしょ濡れがたたって翌日また一人が弱って来た。28日、行程も8割を終えいよいよアルプスの雄劔岳へあと四日という日、弱っていた一人は遂に発熱、船津の手前で頑張りぬいた末ついに倒れた。平常は朗らかな彼がその日は朝から無口だった。苦痛を忍んでいたに違いない。それでも“行く”と頑張る彼であったが、それ以上は無理だ。帰さねばならぬ。しかし熱のある彼を一人で帰すわけにはゆかぬ。結局彼と山に経験の少ない他の一人を附けて帰そう、残るはただ自分一人、それでよい、ただ一人でも劔の頂上に立たねばならぬ。天幕を送り返して一枚の防水布をテント代りに食器類もすべて捨てその夜は跡津川畔に夜露にうたれてゴロ寝した。運の悪いことに真夜中、雨が降り出して、不完全な防水布とて寝袋の中まで水が入る始末、ずぶぬれになったが、昼の疲れかそのまま寝てしまった。29日水を含んで重くなった寝袋をリュックに詰め込んでただ一人出発。むせるような濃いガスの中を大多和峠を越え有峰に入った。アルプスへ入ったこの二晩とも雨中のゴロ寝だった。30日雨は上がったが、御難の日だった。予定の直線コース、折立峠を越して真川に入ろうとした。しかし10年間めったに人が通らなかったため峠はブッシュだらけ、その上真川は連日の雨に増水、途中まで行っては見たが一人ではどうにもならない。仕方なく人里の路を降って立山への常道粟巣野から称名の滝へ廻ることにする。

31日こそ最も苦しい日だった。ずぶぬれの二晩がたたって、40度近く発熱、吊り上げられるような胃の痛さに平素なら1時間もあれば十分なブナ坂を4時間もかかってやっと登りきった。冷雨がしとしとと降る中にただ一人苦痛を忍ばねばならない。しかし今断念しては最後の一日を残して歩んで来た112里の道が泡のごとく消えてしまう。心を励まして弘法小屋へたどりついた。

8月1日すべての苦痛に打克った酬いは来た。出発以来最初の快晴雲一つない青空の下に拡がる海抜1700bの高原弥陀ヶ原をけふは昨夜の熟睡に回復した元気で一気に突破、正午には雷鳥澤を登りきった。ああ!今見る劔岳こそ生涯忘れられぬ姿だ、幾度か見た劔の姿、しかし120里の路を慕って来た自分は今ほど神々しい“劔”を見たことがない。幾多の城砦をめぐらした“劔”は城の主人を迎えたように自分に微笑みかけた。午後4時頂上に一人立つ、すべてを克服して獲ち得たあの喜びはいひ表す言葉はないだろう。ケルンの傍らに立って、しばし茫然としていた。岩燕の羽音に呼び覚まされて雲海の彼方、東の空を遥拝、護国の霊に黙祷をささげ、20日あまりの行程を護ってくれた神々に手を合はさずにはいられなかった。

=関学山岳部員井原濶達記=

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