例会山行の記録

03年5月例会山行 大峯山系「大普賢岳(1,780m)及び釈迦ケ岳(1,800m)」

リーダー:阿形

参加者:阿形、尾崎、鮎川 以上3名

前日の最終確認では、連休中どこのキャンプ場もにぎわいテントを設営する余地がなさそうだと悲観論。とりあえず目的地まで走り状況を判断し適宜変更を加えながらやろう!それが楽しい!と気楽な気分へ!

5月3日(土) 快晴

2〜3日まえより日本列島には高気圧が覆い更に2〜3日は好天を保証している。尾崎OB宅集合6:30。阿形OBのワゴン車(登山用に昨年5月購入)にキャンプ装備、食料等を移し替え(発)7:00。水越峠を経由し24号とのクロス地点にて渋滞。以降法定速度を守り国道169号より吉野川に沿って、新緑香る深い渓谷を快調に走る。薫風さわやかこころ浮き立つ。途中、「下北山村スポーツ公園」にキャンプ場の状況を聞く、「本日は満員でテントは設営不可」との答え。急遽「和佐又山」へ変更し、新伯母峠トンネルを通過後、南出口より右折し細い急なつづら折れを阿形OBの電光石火の巧みなクラッチさばきと力強いエンジン音を残し登る。和佐又(着)9:15。受付を済ませ指定のキャンプサイト(標高:1200m)の小高い適地を確保しテント設営。既に家族用の大型テントが15幕程設置されている。

大普賢岳へ向け9:51スタート。スキー場の緩斜面に足並みを揃えゆっくり登る。登山客は意外に少なく静かな山道にウグイスのささ啼きが面白い。三者の呼吸は揃いリズム感あり。「朝日窟」10:40。岩窟の奥に僅かに水滴となって落ちる水を水筒に補給する。「笙ノ窟(註:1)」に至り、1300年程前に参篭し悟りを開き「霊媒能力」を身につけた「役小角」の姿が彷彿と浮ぶ。

ルートは良く整備され、鉄製の階段に身体を持ち上げる、喘ぐ。額より汗。「石の鼻」11:20にて東面の展望を楽しむ。谷より吹きあがる微風は心地よい。しかし北山川をはさんだ対岸の地肌を曝した大台ケ原ドライブウエーが気にかかる。更に鉄製の階段が随所(不必要と思われるところまで)にあらわれ約1時間の登行の末「大普賢岳=1780m)」に達する12:20。西側の岩峰で昼食。阿形OBより西面の渓谷や小学生時代(父親に連れられて)に登った時の思い出話を聞く。

13:11下山開始。石の鼻13:45。テント(着)15:17。「備長炭(註:2)」をオコシ、メザシ等を金網にのせ早速楽しい酒盛りと夕餉。ここで阿形OBよりクレームが発せられる。「焼肉はどうした!・・・」と、尾崎OB(食料担当)難渋する様子?。

山を登り終えシンドイ運転をしながら帰宅する必要もなくゆっくりテントで休めることは格別。

静寂のしじまに仏法僧(コノハズク)の低く腹に響く孤独な啼き声を聞くうちに就寝20:30。

5月4日(日) 快晴

明け方、地面より忍び寄る冷え込みに目覚める4:30。テントを設営したまま「前鬼」へ向けスタート6:08。一旦169号へ下り更に北山川にそって南下。池原ダムに懸かる前鬼橋を渡り前鬼口バス停より林道をさかのぼる。貯水池のバックウオーター上部の展望台より豪快な「不動七重ノ滝」を眺める。直線距離は400〜500m程離れているが水量豊かに流れる落ち口から飛沫と滝壷からは轟音が聞こえてくるよう。車止めゲート前の広場(駐車場=標高:600m)には10台余りが駐車し僅かな間隙に駐車する7:11。登山届投函。広い登山道を登ると『やがて忽然として神秘の前鬼の仙境が目前に展開された。』(註:3)。標高:800m(着)8:06。小仲坊住職の五鬼助義之氏(註:4)に挨拶。8:25(発)、暫くせせらぎの音を耳にし杉林を進む。やがて沢は伏流水となり瀬の音は途絶え喬木の芽吹いた枝の間より五月晴れの天空から光りが射しこみ肌を焼く。コル前(標高=1150m)9:16。前方には大日岳が圧倒的な高度で屹立し倒れこんでくる。「太古の辻」分岐10:40通過。随所に「三井寺」の比較的新しい標識が目立つ、なぜ?。このルートは和佐又から大普賢岳へのルートとは異なり足に優しい木製の階段が整備されている。大日岳の西斜面をトラバースし、涼しい風が吹きぬける尾根上(釈迦ケ岳東面の石塔状の柱状岩壁群がすばらしい)にて大休息11:00。ギャップを一旦下り「深山ノ宿」前は通過。「釈迦ケ岳」山頂に達する12:35。三者揃って大きな釈迦像に山岳会物故者の御霊に対し深甚の祈りを捧げる。

03年5月例会山行 大峯山系「大普賢岳及び釈迦ケ岳」

はてしなく山波連なる大峰の雄大な展望に溶けこむ。13:30下山開始。「深山ノ宿」にて「香精水」(註:5)を水筒に補給し石の鼻13:45。

休息中に頂上で見かけ若い外人グループ(男2名・女性2名)と合流、オーストラリアのパース市出身で「2年前に日本に来て“津”のある学校で英語を教えている」と言う。「トダイイズファインダイ!」と冷やかすと4名とも顔を合わせ苦笑しながら「学校で教えていても時々オーストラリア訛りがでて慌てることがある」と率直で屈託がない。親しみがわく。小仲坊(着)16:05〜16:30。ゲート(着)17:00。

帰路、冷たいビールを買い付け、しばらく行くと「鮎の塩焼き」の看板が目に付き急停車。「渓流の女王=あまご」を今夕の宴に供すため購入。テント帰着18:20。今日もまた「七輪と備長炭」によって、暗闇の中でローソクを点燈しながら、楽しく美味しい夕餉。暗闇に乗じ、コッフェルに残った「酒」を飲もうと手を伸ばしたところ阿形OBよりストップが入る?。「あまごの骨酒」用に残しておいた貴重な液体である。備長炭の輻射熱でこんがりと焼きあげた骨を酒に浸す。「絶妙!」。腹を満たしシュラフに入り腹式呼吸をする間に気持ち良く就寝21:30過ぎか

5月5日(月) 快晴

未明「喉奥に強い痛みと暑さ」に目覚める。「あまごの塩焼き=過剰にふりかけた塩」が原因。

和佐又(発)6:50。昨日と同じルートをとり、前鬼ゲート駐車場(着)7:53〜。「小仲坊・前鬼」(着)8:40。(発)9:00。「小仲坊」手前より踏みあとを辿り、ほぼ水平な樹林を抜け、なだらかな坂を進み「閼迦(あか)坂峠=標高:900m」9:23。例の「ピンクのやまざくら」が目を楽しませてくれるはずの峠だ。周囲を眺めてもブナの若葉より他に見るものはない。急な傾斜を下ると前方に清らかな色彩が展開する。直径15mほどの淡いブルー(石灰岩独特の渓流)の水を湛え、水底の玉石の輪郭と色が手を差しだす近さにある。ここが「垢離取場(こりとりば)」である10:00。まさにここで斎戒沐浴を行なうならば人の身の不浄を拭いさってくれる禊(みそぎ)場である。手にすくって飲む。大岩に懸けられた丸太を踏み対岸の鉄筋のステップをつかみ幽邃の境へと入る。滝音が響く地点より朽ち果てた木製の階段(真中を踏むと折れそう)を慎重に下り「裏行場」に下降する。「三重ノ滝」の中段「馬頭滝」の滝壷である(着)10:32〜。期待通りの深山幽谷。この滝は約40m程度だが、落ち口の一部のみ逆光が射し飛まつが空中にキラキラと輝く。やがて首筋が痛くなり、光りの瞬時の動きに目の奥も疲れる。5〜6m下流側の越流地点に移動し滝の落ち口から下を覗く、断層(岩の摂理が見事に交叉)にそってとてつもなく落ち込んだ「不動滝」を俯瞰する。奈落の底かと思わず金縛りとなり「めまい」におそわれる。二つの滝は確認できたが最後の滝「千手滝=(役の行者をお祀りしている洞窟があると云う)」はこの上らしい。阿形OBは昔、この滝を左岸側に巻き一周する道があったということで尾崎OB果敢に偵察をこころみがルートは消え失せ判然としない。廃道となってしまったか。

再び「垢離取場」へ引き返し昼食11:20〜11:48。「閼迦坂峠」12:19〜12:30。小仲坊(着)12:51〜13:05。パーキング(着)13:32。一旦国道を南下し山懐に湧く下北山村「きなりの湯」(着14:15〜14:50)につかる。湯は滑らかな泉質であるが、お湯は些か「泥」臭さい。

連休最終日、国道に行き交う車も少なく順調に帰路を辿る。尾崎OB宅18:20。64時間振りに帰宅20:20。連日のハードな行動で相当疲れるが充分満足できた。

★ 今回の二泊三日におよぶ全走行(300km以上)の運転は阿形先輩一人に頼ってしまった。さすがに44年前の「ペルーアンデスのピコ・デ・AROZ:6250m」の初登頂者!。鉄人!いまだ衰えず!

★ 本例会山行の主目的は「ピンクのやまざくら」と優雅に洒落たが「旬」は10日前に終わりすでに「葉桜」となっていた。来年に期したい。しかし「和佐又のシヤクナゲ」は薄紅を呈し「清楚で気品ある乙女」を想わせ満足した。全行程の歩行距離は38キロと676メーターと細かい。理由は、尾崎OB携帯の「万歩計」の総計が3日間で58,600歩を計測し、0.66を掛けて求めた距離である。三名とも2〜3kgの減量に成功した。「財布の重量」は全行程テント泊のため、費用(食料費・テント場入場料・テント場使用料・ガソリン代等)はリーズナブルな範囲に収まり余りダイエットさせず健全さを維持した。酒は尾崎OBの差入れにより全行程「1升ビン」1本でおさまった。小屋泊に比較し半額以下の節約ができた。

★ 例会山行として「二泊三日のテント泊及び1800m峰」への企画は関西でははじめてのことか?。同じ“釜のめし”、テント泊の快適さと歩行リズムは終始調和していた。但し、メニューには些か課題が残った。尾崎OBも私も普段「肉類」はほとんど食さない。一人、「焼肉はどうした!・・・」の阿形OBは「往年の名食料係」であり合宿前には管理栄養士を訪ね、栄養学を研究し、ペミカンやホルモンをボッカし好んで食したようだ。

註:1 (略)・・・笙ノ窟は岩壁に開口する自然岩窟で、稜線をたどる奥駆道から離れた地点に位置する。『扶桑略記』などにみえる日蔵上人道賢の参籠によりその名が良く知られているが、大峯の宿として発掘調査を行っている唯一の遺跡である。1993年の発掘調査では、窟にまつられていた銅造不動明王立像(奈良県指定文化財)の欠失部が発見されるとともに、9〜10世紀の須恵器片・・・(中略)・・・などが出土し、平安時代前期以降、参籠として利用されたことが実証された。参籠窟としては、これも稜線から離れるが、釈迦ケ岳東面の前鬼三重滝の行場が良く知られ、その千手滝脇の両界窟のうち、金剛窟からは永仁三年(1295年)の参籠を示す真木碑伝が発見されている。『季刊考古学・山の考古学』第63号雄山閣出版“山と考古学”森下恵介氏

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註:2 「備長炭」は、高級料理に使われるが、燃焼する過程で「木炭に含む水分が蒸発し、はじけ飛ぶ」ことがある。今回は事前に1回焼いて水分を充分抜き持参した。「備長炭」を熾すことも難しく時間がかかる。今回は「杉の落ち葉と枯枝2〜3本」で容易に着火した。

「炭火」を囲み、「干物」がこんがりと焼きあがるのを見つめ、料理の出来具合を待つ時間は心身ともに暖かい。「火」を前にすると原始へとかえり、郷愁にひたれる。我々の祖先が「火」を手に入れて以来、つい50年ほど前まで「火鉢(暖房)、七輪(料理)、風呂、焚火等」を囲む生活は延々と我々のDNAに組み込まれているから。

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註:3 『孤独の山旅』入江英一(昭4高商 No.119)著・発行 173頁より

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註:4 麻植OBより例会山行案内に対し下記のメールを受信した。

『参加出来ませんが、以下の思い入れがあります。S57年秋、弟と二人で奥駈(オクガケ)ルート、弥山→釈迦ヶ岳→前鬼にくだりました。関西で一番高い稜線を走り、前鬼に着き、(正式には小仲坊)主の五鬼助義价(ゴキジョヨシトモ)氏と3人でドラム缶ストープを囲みのみました。同氏は本気で自分は日本最後の鬼の子孫であり、役の行者から与えられた釈迦ヶ岳は所有権を独身の彼の死後寄付するといっていました。ウィーンからワイン協会の連中が来たとか、孤独なアル中の彼は、丁度その日無線電話が開通し、私が弥山小屋に忘れたナイフを返送してくれるよう嬉々として弥山と通話してました。鬼そっくりのゴツイ男で、達筆の墨書と鬼の絵を6月例会の折お見せします。彼の死後、甥が前鬼の宿を継いだと聞きますが、当夜鹿の声を聞きながら3人で飲んだ事は忘れられません。』

…この話を今回「五鬼助義之氏」に話したところ、叔父(五鬼助義价=父親の弟)は酒が大好きだったこと。私は第61代目(本家)に当ることを前置きして、にこにこしながら「私もお酒は大好きです!!、皆さんと飲みたいのですが、忙しくて…」と真新しい作務衣に身を包み「白顔の男前」は微笑んでいました。また近年釈迦ケ岳へは十津川支流「旭ダム」側よりの林道が通じ、容易に釈迦ケ岳へ登るルート(林道終点の駐車場より約2時間)が拓かれ小仲坊・前鬼を訪れるお客が減ってきたと嘆く。もう一つ質問を投げる。釈迦ケ岳頂上に『昔は純金の小像を置いてあったが盗んだ九州の某は帰郷後天罰てき面で家は破滅の憂き目にあい、はるばる元の場所へ返しにきたそうな。その金像は前鬼に移され今日に至ると。』(前出:『孤独な山旅』より)との逸話があるが、それを正したところ、返しに来たのではなく、「出てきた」のだと話してくれた。また、宿舎の前の広場に中型のバスが停泊しているのを見て「ここにバスを入れるべきではない」と進言したところ、「おっしゃる通りですが、前からの知り合いでどうしても断りきれずに…」と恐縮し、別れ際に「紀伊山地の霊場と参詣道」はユネスコの世界遺産登録を目指していますと元気よく言う。

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註:5 前出「五鬼助義之氏」談。「香精水=お釈迦様のヘソからの水」は、命の水で万病に効く、特にガンにはよく効くので遠くからわざわざこれを求めにくる人が大勢いますよ」と言う。是非飲んでくださいと推奨される。釈迦ケ岳よりの帰路立ち寄り、岩の隙間より僅かな水滴を水筒に集める。2gを満たすに約20分ほど時を要した。「信じる者は救われる」…。

阿形、尾崎両OBは、この小仲坊に一泊し、磨き込まれ黒光りする広い縁側に座り一杯やりながら“仲秋の明月”を見たいと風雅の境に想いをいたしていた。

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以上

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