例会山行の記録

‘04年3月例会山行報告 仁川渓谷

リーダー:川添倫男
日 時:3月20日(土)小雨
参加者:野地会長、阿形、今元、鮎川、千田、青木、浅田,中井、林、川添、神戸、大橋
現役参加者:吉田、中島、出本、秋山  以上16名

いつもより桜の開花予想も早そうでなんとなく山への血が騒ぎ出してきた。何十年か前のフレツシユの気持ちに戻ろうと母校の時計台前に集合、我々の原点である仁川渓谷を歩いてみようということになった‘95年、阪神淡路大震災で関学も大きな被害を受け、仁川渓谷の景観も一変したらしく、変わりようを確かめたかった。

時計台、芝生広場はそのままだが建物が増え、全体はスケールアップして昔の面影は探しても見当たらない。まず仁川渓谷への取っ付きで学院内からのルートファインディングに失敗、住宅地を抜けるようにムーンライトへ。かつての清流は薄汚くにごりあまり人が入ったような様子はない。現役にザイルを下ろしてもらって登攀に挑戦したOBは今で禁止されているブーリン結びもままならず、また、あるOBは取りついたものの途中で立ち往生。「体重が増えたもので・・・、こんなはずではなかったのに・・・」など言い訳におおわらわ。

いきなりそれぞれの年齢を実感しながら踏み跡をさかのぼる。鹿の背ではトライする人もなくかつての自慢話、武勇談に話がはずむ。パール、三段の登攀終了地点の間近にまで住宅が立ち並び時の流れを感じさせられた。最奥のバットレスの下りは若手OBと現役が気を使ってフイツクスザイルを張ってくれた。現役時代は誰もが楽々とこなしたはずの右側のオーバーハングは「結構、ごっっいな」とあきれて見上げるだけ。

学生時代、授業の合い間というよりサボって通った仁川の岩場だが大震災の被害も受けた様子もなく健在であった。ただ、ボルトやハーケンがやたらと多いのが気になった。アプローチもそこそこに整備されていて現役がしっかり利用してくれれば仁川渓谷もかつての活気がよみがえってきそうな雰囲気は残 されていた。例会山行につきものの“反省会”は正門近くの学生食堂。阿形、青木両OBが持ち込んだワインを中心にいつものように大言壮語、先輩連中の失敗談で盛り上がった。ヒマラヤトレツキング、ニュージーランドのミルフォードサウンドトレツキングを計画しているOBもいるとか。皆さん、まだまだ元気だ。「銀行にも見放され、女房には疎んじられ、子供にも相手にされなくなったら行き着くところは昔の仲間しかないなあ」愚痴とも嘆きともつかないぼやきも飛び出した。学生時代は勉強以上に山へ青春の血をたぎらせ、卒業してからも年齢相応の山行をそれぞれの方法で楽しんできた。山という共通基盤がある限り”帰巣本能”をあおってさらに活発な活動が可能だと確信させられた。

(S42年、中井祥雅)

我々の思い出の渓谷(蛇足として)

鮎川 滉

一昨年10月、例会山行(会報18参照)で現役時代に通った渓谷のルートを試した。しかし、取り付きから住宅に阻まれ渓谷に沿って遡上しムーンライトより上流は膨らんだ岩場の微妙なバランスを強いるトラバースやシュリンゲを使用してガレ場の登りなどほとんど踏み跡のない藪にザイルを繰り出し落ち葉のスタンスめがけ飛び降り、ブッシュの棘に痛めつけられながら進んだ。もはや我々が慣れ親しんだルートは消え伏せてしまったと残念に思っていた。当日、リードしてくれた現役部員は岩登は練習には取り入れず、震災後人の往来のなくなった小道は自然消滅し長らく打ち捨てられてしまったものと思った。会報でもこのことを書き、委員会の席上このルートの再開発を呼びかけてみた。野地会長を始め委員各氏は、天井を見上げ「あの清流と岩場が〜」と嘆息し昔を思い起こしていた。

中井氏が行事委員に就任し、先ず第一回の例会山行に我々の原点である仁川のルートの再開発と清掃登山を計画してくれたので、シュリンゲ2本、ナタやノコギリを持って駆けつけた。

10時前、陣頭指揮を執る野地会長をはじめとし総勢14名が時計台前の芝生に集結した。内、吉田賢吾CL、中島健郎君、出本麻裕子嬢の力強い現役の顔も揃い渓谷の再開発にかける意気込みを感じた。大パーティ(神戸OBは遅参,現役の秋山裕也君終盤)は、本日のリーダーである川添OBより作業工程?の手順説明を神妙に聞き渓谷に向かった。往時は図書館裏より簡単に校外へと抜け出る道があったはずだが、そこは頑丈なフエンスに阻まれていた。出だしからルートを見誤り先へのルート開拓は困難が予想された。とともに現役諸君はほとんど仁川渓谷を練習の対象としていないことを知った。聞くと道場の不動岩などには登っているらしいが・・・わざわざ遠くの岩場に行かなくても“仁川の岩場”をこなせば一通りの岩登りのテクニックはマスターでき、本番、劔や穂高は云うに及ばず何処に出ても遜色ないテクニックは磨けるし、この山道をクロスカントリー的に走ればバランス向上の格好の道だ”と口からでかかったが学生の自主性を尊重し飲み込んだ。時代は変わったのだと・・・

当時、雑草に覆われていた水路は味気ないコンクリート製の側溝に替り右側(昔は黒い板塀の家が最後の家屋)には新しい住宅が建っていた。その住宅よりほんの少し登るとすぐそこにムーンライトの下降地点があった。昨夜来の降雨で河床は水嵩を増し川幅一杯の濁流となっていた。丸い石を渉るとムーンライトの岩壁の下である。早速、OB各氏は懐かしくこの岩を眺め上げた。昔、中央のルートはフレッシュマンたちが最初に岩壁登攀の手ほどきを受ける唯一のルートであったが、岩の中央のヘソの左右には当時考えもしなかった岩肌に鈍く光る埋め込みボルトが打ち込まれ、嫌悪感を抱いた。ムーンライトは先ず山を志す山岳部フレッシュ達が最初に心躍らせ岩と対面し垂直の散歩に喜びを知る神聖な岩壁と考えていたからである。

現役諸君は裏手に回り松の木に支点を採りザイルを投げ下ろしてくれた。先ず往年のクライマー阿形OBが試みた。悪戦苦闘するが僅かに取り付きから2〜3のスタンスに足を掛けるがバランスを保てるのは其処まで。次は青木OBが試みる。学生時代より30kgほど肉を羽織り成長?した体では阿形OBより上には期待は出来ぬと見ていると、以外やヘソの下あたりまで何とかザイルを引っ張り上げて貰い到達することができた。予想を上回り感心し「おお!」と感嘆の声を発した。ここで、会長よりその昔のエピソードとして、あるフレッシュは、上級生が先に登りお手本を示し、「よっしゃー、登って来い!」と声を書けられると、“ハーィ”と返事し、驚いたことにスルスルとザイルに掴まり登ってきたのだと披露された。「エッツ!?それは誰ですか?」と聞き返した。あの岩登りの名手のN先輩だと意外な話を聞くこととなった。現役の頃よく岩登りの指導を受け、N先輩は仁川の岩場で練習をしておけばそこで培われた技術とバランスは国内のどの様な大きな岩壁を登っていても容易なことだと話してくれたことを思い出した。ザイルパートナーとして北アルプスの岩壁を登っていたとき、そのようなエピソードはおくびにも聞いていなかったので今度お会いするときには是非聴き質しヒヤカシたいと思った。盛んに活動する現役部員たちの上と下から互いに声を掛け合い、微妙なザイルの動きを眺めているだけで現役時代のコミュニケーションの確立はこの信頼で繋がった一本のザイルにお互いの呼吸を計りチームワークが形成される原点があったのだと改めて納得し、現役の動きを見て良き伝統は受け継がれていると安心もした。仁川渓谷の岩場は、我々にとって本当に有難いゲレンデでりKGACの原点にソット触れ暫らく昔を思い出しながらたたずんだ。

「鹿の背」手前に終結し右岸を5m程登ると立派な道が未だ消滅しないまま続いていた。前回はここに登らず膨らんだ岩を巻きガレ場に苦戦し右岸に登ったが。風化した花崗岩を辿ると昔の道がほとんどそのまま残っていた。道は消滅してしまったと危惧していたが昔のままの懐かしい道は存在していた。後ろに続く人の会話は「思いだすなぁ〜」としみじみとした声が聞こえてきた。登りながらその先にある段差や木の根っこを予想し、その通りの場に出くわし旧友に会ったように挨拶?しながら嬉しく進んだ。

チューター二氏(神戸、大橋両OB)の指示により上流の露岩に終結し一服する。浅田OBはやはり懐かしの渓谷に回帰し流れ去った時代を懐かしみ適切、且つ薀蓄ある考えを披露してくれた。それは先程渓谷で耳にした「小鳥の鳴き声」であり、その鳥の名、「キセキレイ?or カワセミ?」であったとそっと教えてくれた。激しく燃えた現役時代の山歩きでは、こうした野鳥や高山植物の花などの情緒のかけらも考えられなかった日々であったが、今は、鳥や花の図鑑を携帯し山歩きを楽しく喜びながら登っているのだと話してくれ心なごんだ。

吉田CLは、出本嬢にザックを担がせバットレスへの下降路工作のため先行を命じた。我々が到着する頃には危険な斜面に丁寧にもユマールとシュリンゲで適度な自在性を持たせたフイックスがセットされ容易に懐かしいバットレスに再会することができた。卒業以来40数年振りの再会である。下からホールドやスタンスを辿りルートを眺めた。指差す方を見上げると右端の3段の顕著なオーバーハングに埋め込みボルトが打ち込まれている。我々の時代にはそんなところにルートはなかった。新規に開拓されたルートであり、聞くと林OBの頃には既にあったと聞く。われわれ現役の頃、埋め込みボルトが市販され始めたが、抵抗を感じ実際の岩登りで一本も使用したことはなかった。自然が僅かに示す弱点を見出し知恵を絞り登ることが創造する岩登りの楽しさだと考えていたので使うことはなかったのである。時代の変遷とともに“自然を屈服させる”ことが横行し、果たしてその流れは正しいことなのかを大いに疑問とするのだが時代の経緯で致し方ないのかとも知らされた。本ルートに戻り、暫らく木の根っこを掴み「ヨッコラショ」と気合を入れ重い腰を上げ登る道は嬉しく妙に心は弾んでいることに気づいた。

広川原は草ぼうぼうとして砂地は腐食した泥でぬかるんでいた。是より引き返し部室に戻る計画であったが、青木OBより、五ケ池へ行こうと声がかけられた。この頃より小雨が降り続く。五ケ池には昔の面影は何も残ってはいなかった。危険対策(今の時代、子供を危険から守るのはそこを管理する国や自治体に責任を負わされるため、僅かな危険にまでこうした防護網が設置され、びのびと成長する子供を逆にスポイルする結果を招き、日本の将来に悲観を覚えた。頑丈なフエンスを見て不快感を抱いた。昔の風情や情緒は皆無であった。

川添リーダーの指示を無視し、お互いに近道を採るべく二手に別れ、立派な散策道(関学道)に会話を弾ませながらゆるい坂道を辿った。今元OBのザックの担ぎ方の癖が40数年たった今も現役のままのであることに気が付き妙に懐かしく思えた。いたずらに出本嬢を冷やかす。「途中の段差で会長の腰?(お尻)を後押ししたときはどうだったか?」と。その感想は山岳部員として、大先輩を想う当然の回答であったが、ほんのりと紅潮した顔を見逃しはしなかった。山岳部の歴史の中で、かつて立派で強力な女性部員が活躍した時代を思い出し彼女も充実した学院生活を送り成長してくれるだろうと確信した。

昼食は、マージャン街の一角「らん」へと向かった。12人定員の食堂に16人が所狭しと入り小さな椅子に座を占めた。先ず、林委員長より「総会案内と多くの出席を求める」旨の挨拶があったが、既に店は熱気を帯び、店のおばちゃんは「今年でオープン50年を迎える」と云う、間髪をいれず青木OBの不躾?な質問に、我々客と同年輩と見て取った彼女は、昭和9年生まれで今年70歳になると即答してくれた。持ち込みのワインと冷蔵庫のビールの在庫(20本)は瞬く間に飲み干してしまった。我々の日本酒の注文に、先ほどから心配そうに窺っていたご主人の顔が奥から覗き自分の晩酌用の「白鹿パック」を提供してくれた。「酒乱会」の話題と会員、部員の誰それのエピソードへと会話は続いた。現役部員に食事をご馳走?したら遠慮なく大食いし勘定が大変だったとか、T嬢を自宅まで送って行ったとか次から次へと話題は広がった。

部室へと引き返し入ると今日あるを期し現役諸君により綺麗に整理整頓されていた。大橋チューターはフリークライミングの板に何度も(すぐ落ちてしまうので)チャレンジしていた。往時の学食のラーメン(30円)、カツ丼(60円)の値段が日本のインフレ?高度成長とともに値段が高くなっていることも比較文化として面白く思った。青木OBは書棚より「山の歌集」を手にし「新人哀歌」を合唱したが現役諸君はこの歌を誰も知ってはいなかった。是非復刻したらと意見がでた。N先輩が1964年に発行した歌集である。早速借り受け、ワープロに打ち返してみようと考えた。

今日の一日に大いに満足し、千鳥足で甲東園へのゆるい路に足を運んだ。

以上

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