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2013年秋、メラ・ピーク(ネパール)登山

9月23日に出発し、10月24日、BKK経由で帰国しました。

10年ほど前から登れそうなピークで景観も楽しめると気にしていたが、ルクラ飛行場からキャラバン2日目で4610mのZatrwaLa(峠)を越えることが可能か思案し躊躇していた。近年、国内外でメラ・ピークの公募広告を見かけるので現地に紹介したところ、峠の手前、4000m辺りにバッティーが開業しているとの情報を得た。それで意を強くして単独で出かけることにした。

この秋、ネパール・ヒマラヤ東部は1952年来の悪天候が続き、入山以来12日間毎日、雨または雪。
歩き出して12日目、Khare Camp (カレー・キャンプ5045m)から Mera La Base Camp(メラ・ラ ベース・キャンプ 5350m)に入った時も雪だった。
幸いその夜半から快晴になり、10月8日Mera High Camp (ハイ・キャンプ(5780m)を設営。

翌日、未明(2:30)にアタックに出発。メラ氷河の広大な雪原状の緩斜面を登る。
夜が明ける頃には東の空高くカンチェンジュンガ山群が輝き、背後にはチョー・オユー、ギャチュンカン、プモリ、ヌプツエ、エベレスト、ローツエ、マカルーといった巨峰が屏風のように突っ立ち、バルンツエ、チャムラン、カンテガ、アマダブラム、クスムカンカル、キャシャールなど凄い鋭鋒群も目前に聳えている。凄い景観だ!

連日の降雪で新雪の深い所は腰、弱い風が吹いていたので平均して膝上くらいまでのラッセルあり。
ハイ・キャンプを出発したのは一番だが追いついてきた外国隊の連中と前後しながら登った。最終的に頂上目前に迫った時にはヨーロッパからの数隊はいつの間にか下山の途につき、またもや私達(ガイド2人と小生)が最先端立っていた。

頂上直下へのクレバス帯を越す為に手探りでルート・ファインディング中、どこからか大きな男が現れ同じクレバス帯の安全ルートを探し始めたが、我々が先行し頂上直下へのルートを開いた。(11:20)。

早速、頂上直下から垂直に近い蒼氷の氷壁にフィックス・ロープを取り付けて、10月9日正午、吾がガイドと共に足跡一つない汚れなき2013年ポスト・モンスーン初のMera Peak(6654m)の頂上に立った。

我々が頂上へのルート工作をしているのを100mばかり下まで登って来て眺めていたカナダ隊の2人、そしてクバス突破の最中にどこともなく現れた大男もフィック・ロープの下まで来て「フィックス・ロープを使用して登頂させてほしい」と。

大歓迎して、5人でお互いの登頂を祝福し合った。

登頂時に俄かに強風と濃いガスが湧き上がり、山頂や尾根の風下に雪煙が舞い始めていた。
楽しみにしていた頂上からの展望は全くきかず、残念の極みだった。

広大な雪原状の斜面の為、下山時にガスや地吹雪になった場合はGPSにトレースできた往路を頼りに下山する覚悟でいたが、濃霧は頂上を含む山頂付近のみに限られた。下山中の視界は日が暮れるまで何とか効き、トレースも残っていた。

ハイ・キャンプ(5780m)まで戻ったのが16:00丁度。
足腰もかなり疲れているし空腹を感じていた。ハイ・キャンプでザックに残った食糧を食べ、仮眠を取って翌早朝にメラ・ラの前進キャンプを飛ばしてKhare Campに帰るよう考えた。がポーターが気を利かせてキャンプ道具一式を既にカレー・キャンプまで運び下ろしたのこと。

夕暮れの氷河上の下降は雪原をフラフラになりながらなんとか歩いたが、日が暮れてから、大小岩石の間を縫ってルージュのコースのように凍りついたツルツルの急斜面を下る辺りから足腰の力がなくなってきた。
一度スリップすれば大怪我間違いなし。慎重に慎重を重ねて全神経を集中し一歩一歩踏み出していた。 その内、遠くから二つの灯りが近かずいてきた。私達のポーターが私の帰りが余りに遅いので迎えに来てくれたのだ。

とに角、彼らに両腕を抱えられ下りたかったが、下山コースが狭いので片腕を持ってもらうぐらいだった。
殆ど休みなく歩き続けた。手ごろな岩があったので1分もたれて休む(岩などに一度腰を下ろすと2度と立てないと考えていた)と言ったら、ポーター曰く「この窓は南井さんの部屋ですよ!」と。夜中24:20だった。
嬉しいことに Khare Campの小屋の横まで下ってきていたのだ!テントを張らずに小屋の1室まで借りてくれていたのだ。

こんなことで、やっとのこと カレー・キャンプにたどり着き、ポーター達が広げてくれた寝袋に収まった。
温かい紅茶を少しずつ飲んで陽が昇るまで昏睡。

夜中を含めて連続22時間の行動で体力と精神力を使い果たした。

高齢者は15時間程度迄の歩行、やはりハイ・キャンプで泊まるべきだった!私がしっかり指示をしなかったので彼らは私が予定時間通り快調に登り、登頂したことを知り善意でハイ・キャンプを撤収してくれたのだ。
翌日は幸いまだ好天が続いていたのでテントやシュラフなど荷物を日干しにしている横で終日眠りこけた。

翌10月11日から下山の途に、空身でゆっくり下るだけの脚力と体力は回復していたが次の小屋までが限界。
その上、またもや夕方から雪と雨が降り始めた。

往時、ルクラからZatrwaLa峠(4610m)越えは高所順応も順調で、急な草付きの斜面と連続する石段の山道も体力を温存していたのでルンルン気分だった。 しかし復路は連日の雨か降雪。高所では全てがデブリで埋まり、凸凹の雪道に変わっていた。特に往時でも1時間を要したZatrwaLa峠の稜線は2m程の積雪があり、デブリが4〜5mに盛り上がっているところなど無限に続くように思われましたが、何とか明るい内に往時、2泊したKharka Teng(4080m)のバッティーに転がり込んだ。
そしてやっとの思いで、翌17日薄暮迫るルクラ空港にヨタヨタの態で生還した。

16日に午後から携帯電話が通じ山域に入った。18日振りに登山関係の情報が入り始めた。大雪で雪崩が頻発し、沢山の登山隊に犠牲者が出たり、ヘリの救出が続いていると聞いた。
確かに17日、上空は厚い雲に覆われていたが、早朝から谷の雲間をヘリコプターが頻繁に行き来していた。

2日遅れで下山してきた単独行の静岡出身の青年から、「Khare Campに宿泊(本来テント生活の予定が1日で積雪2m、翌日も降雪で4m程の積雪になり全員が小屋に逃げ込んでいた)の4隊の登山者とガイドたち20人ほどが一同に会し、全員で協力して大雪の山からの脱出策を話し合った。そして10月15日全員が交代でラッセルをし、下山途中の宿泊を減らし逃げ延びてきた」とカトマンズで聞いた。
この青年は始めてのヒマラヤ入り、皆さんが協力姿勢で望む姿に感動したと言っていたが、公募隊までが協力したのは余程の危機感があったのでしょう。

こんなことで パキスタン、ティリチ・ミールの一角、Dir Gol Zom(6776m) そしてパキスタンのハイポーター2人を連れて 出かけた新彊ウイグル自治区のMustag Ata(7546m)にも勝る充実感に溢れ、思い出多い山行になった。

10年前、Mustag Ata登頂時に左右の足が凍傷になった。凍傷治療の専門医から「指の切断は免れるだろうが、痛みとは一生付き合うよう」に言われた。今回も冷えて痛くなり眠れず湯たんぽでしのいでいたが帰国10日後にやっと開放された、ただし、その後も厚めのフリースの靴下を履いて寝ている。

高所への順応の際、沢山水を飲み、沢山小便が出るほど順応が順調に促進される。悪いことに帰国後1月経った現在、未だにPCの前に座っていても15分〜30分ごとにオシッコを催し、少しずつ出る。夜は1時間弱毎にオシッコで起き、寝不足気味。困ったものです。
体としては相当ダメージを受けているようですね。

日程表は以下のとおり:

9月23日、成田空港発、バンコク空港内のホテルで1泊
24日、バンコクからカトマンズ(1300m)入り
25日、休養と準備
26日、早朝、カトマンズを15人乗りの小型機で出発しルクラ(2840m)着、直ちにキャラバン開始し、
Chutanga(3020m)へ、小屋泊まり。4時間、途中から雨。
27日、高所順応のためKharka Teng(4010m)往復、往復4時間、帰着後大雨。
28日、Kharka Teng入り、バッティー(茶店)にて宿泊。3時間、大雨。
29日、高所順応のためZatrwaLa方面に1時間半ほど登る。小雨と雪
30日、ZatrwaLa峠(4610m)を越えてThuli Kharka(4010m)入り、小屋泊まり。5時間弱、ガスと小雨
10月1日、Thuli KharkaからKote(4180m)入り、小屋泊まり。8時間、ガスと雨。
2日、KoteからTangna(4350m)入り、小屋泊まり。7時間、雨。
3日、高所順応のため1時間ほど登るも雨が酷くなり小屋に戻った。
4日、TangnaからKhare Camp(5045m)=実質のBC. 3時間半、雨、小雪。
ここから上はテント生活の予定が、連日の雨でテント・サイトは泥田のように水が浮きテント生活は不可能だった。私とガイドの2人は小屋に泊まり、コックと2人のポーターは炊事専用の小屋掛けで寝泊りし5人分の食事の支度もした。
5日、休養と高所順応、小雪と小雨。
6日、天気待ちの休養日とした。(5日の夕方にやや天気回復の兆し=初めて夕方の空の一角が薄っすらと見えた)
7日、Khare Campから Mera La BC(5350m)入り。4時間半、霙と雪。メラ・ラの峠は強風が吹きぬけるので少し下った所がキャンプ・サイトながら霙と降雪で岩盤の上は水浸し。幸いガイドたちも初めて見たと驚いたブルー・シートの小屋掛けのバッティー(ガイドたちはFive Star Hotelと名付けていた)があったので泊めてもらった。夜中に何度も小便に小屋掛けから外に出たが、夜半頃から雪空が天の川も輝く快晴に変った。
8日、Mera La BCから大雪原状のメラ氷河を遡り High Camp(5780m)入り、大きな岩峰の下にテントを張った。4時間弱。テントは大小全部で20張りほど見かけた。
9日、午前1時に起床。しっかりと食事を摂り、どこの隊よりも早く2時30分に出発した。平均して膝くらいの深さのラッセルで殆ど休憩も取らずにゆっくりと登り11時20分に山頂の手前まで達した。ヒドン・クレバスを渡り、山頂基部からフィックス・ロープをセットして12時丁度に吾がガイドたちと2013年ポスト・モンスーン期初のメラ・ピーク山頂に立った。
悪いことに登頂時には山頂付近にガスが俄かに湧き上げり、楽しみにしていた展望は全くきかなかった。幸い濃霧は頂上付近だけで広大な下山時のルートは視界はきいた。16時にHigh Campに着き、Mera La BCもすっ飛ばしてKhare Campに精根使い果たして帰還したのが24時20分過ぎ。22時間弱、快晴。
10日、Khare Camp、テントなど乾燥日干しする横で昼寝と休養。
11日、Khare CampからTangnaまで何とか歩いたが4時間を要し、泊まる。夕方から雨がしょぼついた。
12日、TangnaからKote,まで6時間半、午後から雨、
13日、Koteから Tatok(3580m)まで滝のような大雨の中、7時間半。酷い登り降りのキツイ路、
14日、Tatokで大雨待機、停滞。
15日、Tatokから Thuli Kharkaへ、雨と雪の中、6時間半。急な登りオンリーの路。
16日、Thuli KharkaからKharka TengまでZatrwaLa(4610m)を越えて下山。6時間半、雪。
17日、Kharka Teng からLukla飛行場まで帰着。7時間、曇天。
18日、Luklaから朝一番・7時発の15人乗り小型機で振り出しのKathmandu帰着、曇天。

(参考)

メラ・ピークの標高: ◎Nepal Mountaineering Association (NMA)発行の登山許可書“Climbing Permit”ではHeight:6654mとなっている。また、“Mountaineering in Nepal Facts and Figures”(Government of Nepal, Ministry of Tourism & Civil Aviation, 即ちネパール政府登山局09年6月発行の164ページにもMera Peak = 6654m と記してある。
カトマンズでNMAから得たMera Peakの登山許可書(Height 6654m)を提出して、Khare Campで登山手続きもした。
しかし、一般市販地図などではMera Peakの最高峰は北峰6476mとなっている。最後のフィックス・ロープを使って登攀する登り口にGPSをデポして登頂したので正確な数値はないが、標高差は20m前後だろう。北峰直下のデポ地点でGPSは6487mと記録している。6654mとは大きな差がある。
近年、多くの公募隊を含む登山者が登っているのは一般市販地図にあるメラ・ピーク北峰であり、Khare Campで登山許可書をチェックしているオヤジさんも北峰がNMA許可のピークだと言った。
帰国後、「ヒマラヤ名峰事典(平凡社)122ページの地図」にメラ・ラの北側稜線伝いに △ ピーク41 6654m と記された登山許可書の6654mと同じ標高の山があることに気付いた。

食 事: キャラバン中は小屋またはバッティーでネパール定食(ダルバート)を摂り、Khare Campでは同行のコックさんが作る和食もどき、ハイ・キャンプではガイドが炊事に当たってくれた。
シェルパの呼称: 戦前からヒマラヤ遠征にシェルパ族がアシストとして加わりエベレスト、マナスルなど初登頂時代に活躍した。一般には遠征隊を支える人たちをシェルパと称していた。現在、シェルパ族の人たちが担った仕事を他の民族の方々がやっていることが多い。

 そんなことで、旧来の呼称       現在の呼称
サーダー  →    ガイド
シェルパ  →    クライミング・ガイド

今回の私の隊の構成では
ガイド=サンタマン・タマン氏(タマン族)
クライミング・ガイド=ナン・パサン・シェルパ(シェルパ族)
コック=ビネッシュ・ライ(ライ族)
5人のポーター達は全てタマン族の人だった。

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