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2007秋、チョー・オユー登山報告

11年連続でヒマラヤの高峰登山に出かけた。チョー・オユー(8,201m)は1974年秋、3年近く勤務したアブダビから帰国の途上、ネパールに立ち寄り、トレッキング先のゴーキョから眺めた。新雪に覆われた非常に綺麗な巨峰としてわが目に焼きついている。チベット側からであるが、まさかこんな山に踏み込むとは夢にも思っていなかった。

プロローグ

06年秋マナスル登山から帰国後、不整脈に気付き山仲間の先生に相談。日本医科大学病院を紹介していただいた。循環器系の高山守正先生を訪ね、開口一番「来秋、ヒマラヤに戻れるように治療をお願いいたします」と厚かましくもわが意を伝えた。各種検査の結果、「心房粗動」との結論が出た。早速入院しカテーテルで心房内の治療や検査を施すこと2回、ペースメーカー埋め込手術を含め11月7日から翌年1月末まで2ヶ月半の入院生活を強いられた。4時間を要したカテーテル治療やペースメーカーを植え込んだ日以外は看護師さんに注意されながらも毎日、スクワットや点滴車を引きながら院内を歩き回って足の筋肉の減退防止に努めた。お蔭様で退院時も個人装備を背負って帰途についた。
2月は空身でウオーキング、3月中旬から10kgの荷を担ぎ、足首には各2kgの重しを着けた。猛暑の続いた6,7,8月には15〜20kgを担ぎトレーニングに努めた。8月4〜5日にかけて「NPO富士山観測所を活用する会」の高所登山研究の一環として主治医の高山先生がリーダーで一般登頂者を対象に調査(SPO2,脈拍、心エコーなど)を実施するとのこと。被験者兼雑用係として参加した。水4リッター、食糧、シュラフなど20kgを背負って富士スバルライン5合目パーキング場から6時間でお鉢に着いた。8月25〜26日に主治医と志賀高原に出かけ体調の出来上がり具合を観察した。出発前の8月29〜30日、三浦ベースキャンプの低酸素室を利用した。夕方6:30に5,500mの高所にセットされた低酸素室に入り、30分静止後2時間半のペダル漕ぎ。夜の10:00から翌朝7:00まで室内酸素量を4,800mにセットして寝袋内で熟睡。朝食後、再度5,500mにセットした低酸素室で3時間ペダル漕ぎのトレーニングを行った。 退院後毎日アミノバイタルPROを2〜3袋飲み、トレーニングを繰り返したので体の筋肉は退院時よりかなり快復しているが、体重は殆んど変化がない。

期 間:9月4日〜10月12日

9月4日:成田を発ち、バンコックで1泊後、翌日正午過ぎにカトマンズ着。早速、現地エージェントのコスモ・トレックを訪問し、登山用具などを預ける。翌日はそれぞれ準備に費やす。

9月7日:カトマンズからチベットの区都ラサまで飛行機で移動。好天なら左にエベレスト、右にカンチェンジュンガなどヒマラヤの峰々を見ることが出来る贅沢なフライトだが残念ながら全てが雲の中だった。

その後の行程は04年シシャパンマ登頂報告に重なるので割愛しますが、当時との違いのみ記しておきます。ラサには青海省西寧から青蔵鉄道が通じ、沢山の漢人達が団体旅行で観光に来ていた。ポタラ宮殿にも大勢が詰めかけ、その喧騒は類を見ない。ラサの街も綺麗で派手な建物が多くなった。3年前にラサからシガッツエに行くのに幾つかの5千mの峠を越えて行ったが、今回はヤルツアンポ(プラマプトラ)河右岸の殆んど上下の無い完全な舗装道路であっけなく到着した。08年のオリンピックに合わせて整備された道路は2車線ながらトラックが全速ですれ違うことができる車道幅があり、恐らくチョモランマBC近くまで舗装されたのではないだろうか。中国の登山協会はオリンピック開催時に、チョモランマ登頂を含むイベントを考えており、沢山の若者が特訓を重ねていると登山協会の人たちは言っている。

9月11日:シガッツエからティンリ(4,342m)入り。

翌日、高所順応促進の為、5,500mの丘にトレッキングを実施。カトマンズからザンム経由で荷物管理のためトラックと同行した大蔵喜福隊長も到着。一気にこの高所に来たため少し動きが鈍いようだと本人が云っている。

9月13日:車でTBCシャブラ(4,950m)へ。いよいよテント生活が始まる。

高所順応トレッキング、荷物の整理などで2日間滞在。

9月16日:中間キャンプ地バルン(5,250m)へ。荷物は先行したヤクを含めて合計40頭のヤクに積み込んだ。

9月17日:ABC(5,700m)入り。中国山岳協会情報では60隊が登山申請をしているが現在20隊がBCにいるとのこと。テントサイトは長く延び、数百メートルにわたり色とりどりのテントが張られたテント村が出来ている。チョー・オユーの頂上も見え、ネパールとの国境ナンパラの氷雪原が目前に開けて長居するBCとしては最高の場所だ。

9月18日:テント内外を片付け、居住性の改良につとめ、1時間ほど氷河本流に沿ってトレッキングし高所への順応につとめた。本日は結婚記念日、明日はワイフの誕生日であり、メールを入れる。また、主治医に予定通り順調にBC入りした事をメールで知らせる。

9月19:登頂安全祈願、ラマ僧が読経し安全祈願を執り行った。大量に寄贈いただいたアミノバイタルPROを全員に配布、その他アタック食も各自で確保した。

9月20日:BCからデポ地(6,050m)まで高所順応トレーニングに出かける。順調に順化できているようだ。シェルパはサーダーを含めて全員で荷上げに入った。

夕食後、メス・テントにコックさん手作りの大きなバースデー・ケーキが持ち込まれ、私の72歳の誕生日を皆さんが祝ってくれた。コックさんの心意気とヒマラヤの山中での贅沢な誕生会に感謝。

9月21日:初めて酸素を利用する隊員への説明会と酸素マスクのチェック。明日のC1、そして明後日のC2途中までの高所順応山行用アイゼン、ハーネス、ユマールなど高所登山用具の点検準備を実施。

9月22日:8時過ぎに出発、13時過ぎにC1(6,450m)着。テントは4人同宿。

このC1キャンプ・サイトに135張りのテントが張られているのには驚きだ。シェルパの荷物の中に食器が見当たらず、コッヘルでの回し食いのような格好になったが、食べる物は皆さんしっかりと食べた。

9月23日:6時起床、8時出発。50m程登ると稜線上に出た。アイゼンが良く効き快適だ。チョー・オユー主峰が眼前に開け、頂上直下までのルートが見渡せる。2箇所のフィックス・ロープ箇所はユマールで安全を確保しながら6、700m地点まで登り折り返し点とした。全員体調も良くルンルン気分で小休止。首が痛くなるほどC2,C3へのルートを眺め、頂上へのルートを頭に叩き込む。登頂の確信を得てルンルン気分でC1への降りについた。

振り返ると真後ろ遠方に04年秋に登頂したシシャパンマが手に取るように見える。思い出多い急峻な北東稜線がスカイラインとなっている。本日は快晴無風、シシャパンマでも登頂者が出るだろう。

アタックに使用する道具類をC1にデポしてABCに下った。17時にABC着、ぜんざいをご馳走になる。

9月24日:休養日、終日雪が舞い、強風が吹いていた。

ガモフバッグに入りABC(5,700m)から2,200m程高度を下げた3,700mを1時間ばかり体験した。休養には少しでも低いところで過ごす方が体力回復に良いので歩いて降りずに、ガモフバッグ内を加圧して、疑似体験をした。

* ガモフバッグの利用:
チベットでは5,000mの高原の上に山があるので、酸素の多い低地に降りて休養することが出来ない。また、中高年者にとって1〜2,000mを下って休養することは、再度登り返す必要があり体力消耗につながってしまう危険性がある。そのような意味からガモフバッグに入って適度に加圧することで心肺機能にとっては望ましい低地に降りたかのような疑似体験が出来る。今後このような利用が増加すると考えられる。

夕食後、明日からの登頂作戦発表あり。一次隊と二次隊に分ける。自分は大蔵喜福リーダーの二次隊となる。

NHKのニュースで丸善石油当時、1年後輩として入社した福田康夫さんが日本の総理大臣になったと報じている。

9月25日:終日猛吹雪。私の個人テントも大きく背の高いメステントも吹き飛ばされないのが不思議なほど、風雪が叩きつけてくる。C1とC2に閉じ込められているシェルパ達が心配だ。

9月26日:午後4時頃まで強烈な吹雪が続いた。テントの中で過ごすしか方法なし。

9月27日:快晴、チョー・オユー頂上には綺麗な傘雲が浮かんでは消え、浮かんでは消えている。上空は非常に強い風が吹いているのが分かる。ABCテントサイト内を散策し、運動不足を補う。目前に開けた広大なナンパラの氷雪原をネパール方面に越えていく2人の姿が印象的だった。

9月28日:終日吹雪、シェルパたちは荷上げと上部テント設営のため吹雪をついてC1入り。御苦労様です。

9月29日:強風雪。一次隊は出発を見合わせた。就眠前、9時になっても吹雪は収まっていない。

9月30日:小雪が降り続き出発を見合わせていた一次隊は10:30にアタックに出発。昼過ぎの3時頃にやっと陽が射し始めた。1時間ほどABCサイト内を歩いて身体をほぐす。5時頃にやっとチョー・オユーが夕日に輝いた。

C1に張られた135張りのテントの半分は吹き飛ばされたり破損したりの被害を受けた。幸いわが隊のテントは全て健在とのこと。ラッセル・ブライス隊など早く入山した大手公募隊は絶滅に近い状態で、登頂活動継続は不可能につき撤収を決めたとのこと。

10月1日:快晴、テントサイト気温マイナス7度C。6時起床、8時朝食。10時出発、待ちに待った好天に恵まれ、朝食もしっかり摂ってC1に向う。氷河沿いの傾斜の緩い登りは順調に登っていたが、急傾斜に入った直後から調子が上がらず、特にデポ地(6,050m)から上は気合を入れても登高スピードが落ちる一方になった。特に呼吸が苦しいのでもなく、体全体に力が入らない感じ。初めての経験だ。18時半にやっとの事でC1に到着した。22日の高所順応山行時には苦もなく登った同じルートで2倍ほどの時間を要した。同行の一人が22日は私と同様に順調にC1入りしたが、今日は私と同様にがっくりとペースが落ちていた。

テントに潜り込み、4人で夕食を食べた。食欲はあったので皆さんと共にスープと粥など食べ終わった。その瞬間、吐き気がした。一瞬の出来事でテントのジッパーも空けきらぬ内に先ほど食べたものが、口からホースから水が噴出すように太い筒状になって吐き出た。

昼に食べた海苔が見えたが他にこれといった物はなし。他の3人には不愉快な思いをさせて悪かった。拭取るのに手間取ったが、お腹はスッキリしていたし、口内には嫌なものも残っておらず気分はスッキリしていた。

夜は1本の酸素シリンダーからパイプを4本枝分けして、各自毎分0,5リッターの酸素を吸って眠った。

10月2日:気温マイナス17度C.夜中に空腹で何度か目が覚めた。昨夜の嘔吐は何だったのか?起床時のSPO2(酸素飽和度―脈拍)は84−94、数回の過呼吸で94−99と計測され高所には順応している数値だ。安心して皆さんと朝食を食べ、C2に向って出発した。

今回初めて高所用の上着を着て歩き出したところ、ザックの肩紐が肩から滑り落ちる傾向があるのに気がついた。6,7,8月と猛暑の中で1日も欠かさず重荷を入れたザックを担いで、左胸上部に植え込んだペースメーカーやリード線に肩紐がかからないよう工夫していた。それは綿のTシャツを着ていたので滑らなかったらしい。化繊の上着は全く抵抗無く肩紐がズレ落ちてくるのに気付いたが、時既に遅し。試しに胸の前のバンドを使うと左の肩紐がモロにペースメーカーに引っ掛かる。大誤算だ。準備時の迂闊さに遅まきながら気付いた。

しばらく歩いて稜線上にでた。体調は特に悪くはない。昨日の午後に較べれば体調もましのようだ。先日ルンルン気分で到達し登頂を確信した地点手前で立ち止まって登頂ルートをじっくりと眺めた。

先行する隊や頂上直下の人たちも良く見える。あと数時間でC2,翌日はC3、そして翌々日は登頂して折り返す。登頂後の疲れた身体で急な氷の斜面を2日連続下降する事が出来るのか。登降のルートを執拗に眺めた。昨夜の嘔吐が気がかりだ。今までにヒマラヤ登山でこのような気分になった事はない。快晴無風でチョー・オユーは全貌を目前に曝け出してくれているが、自分自身の気分は明るさを失い、元気で生還できる自信が揺らいでいる。本来なら登頂ルートが目前に見えれば、がんがんとファイトが湧いてくるものだが心は躍りださない。それでもフィックス・ロープにユマールを掛けて、しばらく上部に向った。ユマーリングをしたり、ユマールの取り外しの為に体をかがめるとザックの紐がずれて肩から外れた。その度にザックの肩紐を引き上げなければならない。こんな動作を繰り返していては登頂も覚束ないし、頑張って登れても安全に下降できるのか、確信が持てない。このような気持ちで、この高所であと4日間連続行動をするには無理があると判断し、また、氷雪の稜線上を一人で引き返すにはこの辺が限度でもあったので下山の決意をした。

雪稜上を一人で下山中、荷上げの為に登ってきた二人のシェルパに出会った。彼らは体調が芳しくなくC1で待機していたシェルパに稜線上まで登って、私と一緒にABCに下山するようハンディー・トキーで指示した。しばらくして、そのシェルパが到着した。水や食糧など重いものを彼に手渡し、11:45分に稜線からC1、デポ地経由、後ろを何度も振り返り見ながら18:00少し前、無事にABCに帰着した。

昨年マナスルから帰国後、不整脈を患い、カテーテル治療を2回、今年の1月25日にはペースメーカーも植え込んでもらった。その間2ヵ月半は入院していた。そして、今回ヒマラヤの第6番目の高峰登山にトライできた。何とかチョー・オユーに登るために入院中から看護師に睨まれながらリハビリに執着し、退院してからは重荷を担ぎ、足には重しをつけてトレーニングを重ねた。お陰様でここまで復帰できたと喜ぶべきか、この半年の間、大汗を流し努力した目標が達成できなかった事をどのように受け取ればよいのか・・・

10月3日:快晴、身体には異常はないようだ。朝食もしっかり摂り、チョー・オユーを眺めている時、第1次隊の隊員3人とシェルパ3人が登頂したとハンディー・トーキーで連絡有り。彼らはC2に降り、2次隊がC3入りした。明日まで好天気が続く事を祈る。

10月4日:快晴だが少し風がある。11:20に風の中、2次隊の大蔵隊長、田村隊員、シェルパ2人が登頂したと連絡有り。吉田隊員はアタックに加わらず、C3で酸素を吸いながら待機しており、登頂者たちと一緒にC2に下山する予定だと。

夕闇が迫る頃、登頂組みの藤倉、土屋さんがABCに帰着し、続いて平岡ガイド、天野氏、シェルパ達も帰着した。天野氏は右手が凍傷気味のようだ。

10月5日:終夜の吹雪、夜明け時も小雪が降っていた。シェルパたちは荷下げに出かける。10時頃、やっと太陽光線が出た。田村氏が16時頃、大蔵隊長が18時頃に帰着、C3まで行きながらアタックに出れなかった吉田氏は疲労困憊の様子だが無事に21時頃に帰着した。

10月6日:晴から小雪。早朝から数十頭のヤクのキャラバン隊がチベット側からネパール方面に広大なナンパラの氷雪原を越えていくのを感激しながら眺めていた。何百年も繰り返してきた伝統的な交易だろうが、交通網が整ってきた近い将来には消滅することだろう。感慨深くこの素晴らしい光景に見入っていた。(*1)

夕方、わが隊の撤収用ヤクが26頭、テントサイトに到着した。一気に撤収作業に拍車がかかった。

10月7日:5時起床、6時朝食。

隊員は朝食後、下山を開始し、正午頃には入山時に一泊したバルン着。

ジープでTBCまで下る。その後、ジープでティンリまで下る予定だったが、ジープと共に荷物用トラックもチャーターできた。ティンリでは夕食を摂るだけでネパールとの国境の町ザンムーまで一気に下った。来年の北京オリンピックまでに間に合わせるべく道路工事が続き、やっとのことで夜半にザンムー到着、ホテルで部屋が無いと揉めたが何とか大部屋のベッドに全員有りついた。5,700mのABCから一気に亜熱帯の緑豊かな谷間まで下りたのだ。

10月8日:ザンムーの国境で出国窓口と税関を通り、しばらく車で下って国境に架かる橋を渡たりネパールのコダリに入った。食堂で夫々が食事を楽しんでいる間にネパールへの再入国手続きも完了した。蒸し暑い中、全員2台のジープに分乗し、カトマンズのRoyal Singi Hotelに夕方チェックイン。

10月9日:大蔵隊長のMiss Elizabeth Hawleyさん(ヒマラヤ登山情報収集家)とのインタビューに同席、夕食はコスモ・トレック大津二三子社長宅にお招きいただきご馳走になった。

10月10日:コスモ・トレック社を訪問し帰国時の荷物梱包のやり直し。郵送する為に郵便局を訪問し、書類作成などの手間、郵送費そしてタクシー代金など考慮すると帰国便でエクセスを支払うのと大差なしと判断した。

コスモ・トレック社に関学、甲南山岳部OBたち(KGAC:小西啓右、青木宏安、KAC:森本全彦、柏敏明、塩崎将美、浪川純吉氏)のランタン谷・ヤラピーク登山一行が到着しており情報交換、昼食、装備のレンタル、パシュミナ購入などご一緒した。

夕方からシェルパ達へのお礼も兼ねてコスモ・トレックの庭で夕食パーティーを行った。

10月11日:朝食後、大蔵隊長と共にYaku & Yeti Hotelに昨夜到着の三浦雄一郎さん、豪太さん親子を表敬訪問。来春のエベレスト登頂実施に向けての体力テストなど沢山の課題をお持ちのようだ。

氏からチョー・オユー登山状況を聞かれたので、「高所順応行では6,700mまでルンルン気分で登り、登頂を確信してABCに戻った。予想外の猛吹雪などの為、一週間後にアタック態勢に入ったときには何故か身体は別人のようになっていた。C1入りに際して高所順応山行時の2倍の時間を要した。翌日、朝食後にC2に向ったが、体力的にも気分的にも盛り上がらず、登頂を諦めた」旨話したところ、三浦雄一郎さんから意外にも「昨年シシャパンマに出かけた時、同じような経験をした。順応山行では7,000mに苦も無く行き着いたが、休養のため戻ったBCで数日間吹雪に閉じ込められた。その後で登頂態勢に入ったが、体に力が入らず登頂を諦めた」と。同じような経験を話されたのには驚いた。(*2)

昼過ぎのTG便でBKKに、夜行便で翌10月12日7:30に成田空港に帰着した。

*1、 The American Alpine Journal 2007に06年チョー・オユー南西面から初登攀したスロベニア人のチョー・オユーABCでの目撃談がある。「9月30日、中国兵によってチベット側からネパール方面にナンパラを越えようとしたチベット人75名の内、17歳の女性を射殺し、死体はこれ見よがしに放置した。23歳の男性も重態で恐らく亡くなっただろう。40人はネパール側に越えたが、残りは中国兵に捕まった。最初、中国兵は自己防衛の為に撃ったと言ったが、後ほど高山病で亡くなったと言った」と。また隠し撮りした捕まった子供達の写真も載っている。
私達がTBCやバルンで国境警備隊から高所順応山行のため高みに登ることを再三注意された理由が納得できた。前年、沢山の登山者が滞在しているチョー・オユーのベース・キャンプでこのような事件があったのだ。それとも知らず私は広大な氷雪原を越えてネパールに交易に出て行くヤクのキャラバン隊を感激しながら眺めていたのだ。

*2、 高所医学関係の医師にお聞きしたところ:「高所順応が出来たはずの身体でも、4〜5,000mを越えるベース・キャンプなど高所に滞在して、全身運動をせずに過ごせば、身体は本能的に体の中枢機能の保全につとめ、手足やその筋肉など身体の末端に酸素や栄養を供給しない可能性がある。」とのことでした。

(参考)中国は全域で北京時間(グリニッチ+8)を採用している。北京から遥か離れたチベット高原では実質2時間以上の時差がある。私達はネパール時間(グリニッチ+5,45)の方が生活や登山活動上、的確な時間を指すのでネパール時間を採用した。
チベットやもっと西の新疆ウイグル地区での登山活動報告書で、出発時間が昼ごろなど常識では考えられない時間の表示は、その隊が中国の標準時間を採用した結果でしょう。

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