個人山行・随想・研究

       2010年・夏 大峯“南”奥駈記
       (太尾登山口より熊野本宮大社まで・・・50km)

                                                  鮎川 滉

 大峯南奥駈道を氏(さいたま市在・日本山岳会々員)と共に歩いてきた。そのいきさつはこの4月、S氏と会う機会があり、私の二年前から懸案となっている“大峯南奥駈道”を話した。この話に「よし!行こう!」と即答してくれたのである。早速、行程表装備・食料計画・諸費予算を作成し、連絡を取り合い梅雨明け後を選び決行する運びとなった。5月より体調管理とトレーニングを開始した。いよいよ実行が迫る7月中旬から列島は猛暑の到来によって高齢者の熱中症による犠牲が報じられ、更に医者通いの身であり、衰える体力を勘案すると5日間の縦走に果たして耐えられるかどうか日に日にプレッシャーが募ってきた。

7月29日(木) 曇のち大雨
JR山崎【650】⇒五条より国道168号線⇒太尾登山口【1055〜行動開始1135】→1,434mピーク【1205】→1,465mピーク【1231】→古田の森【13:10】→千丈平分岐【1345】→深仙の宿【1458】・距離=5km 歩行数=9,620
 S氏は前日夕刻さいたま市から京都に入り、朝7時前JR山崎で落ち合い五條から国道168号線を南下し旭ダム上流の栗平林道を走り釈迦ケ岳への登山口に11時前に着いた。小雨の中で昼食を済ませ雨具を着装し氏の先導により太尾尾根に取り付いた。ザックの重量は18kg余りが肩に食い込んできた。1,465bのピークまでは小雨が降る中をゆっくりしたペースで氏の踏み跡をたどった。

       小雨の中での登行・古田ノ森付近を登るS氏(この直後豪雨となる)

雨中ではあるが登行のリズムは心地よく感じ、この調子ならばこれからの5日間を歩き通せると気分が軽くなるように感じた。
登路で鹿の鋭い鳴き声が聞こえると同時に雨脚が強くなり雲霧に煙る乳白色の前方をくもる眼鏡越しに見据えながら登った。釈迦ケ岳に登っても眺望は期待できないし昨年四月に氏と一緒に登頂していたので千丈平分岐から斜面をショートカットして直接深仙の宿(避難小屋)に向かうことにした。分岐は“行者の隠し水”の下部あたりと見当をつけていた。なだらかな傾斜から東側に水路ができ、雨足と濃いガスの先7〜8メートルにぼんやりと分岐の小さな標識を見つけことができた。釈迦ケ岳南斜面から流れ下る三つの沢は増水し濁流となり足元を選択する余地もなく横切り、さらにルート上も雨水の流れ道の様相を呈し二本のストックを利かせながらバランスをとり進んだ。15時前全身ずぶ濡れとなり無人の深仙の宿に飛び込んだ。ザックの防水カバーをはずすとカバーの底に溜まっていた大量の雨水がドーと土間に落ちた。ドボドボに濡れたが防水袋の衣服類は幸い乾いたままで着替えることができた。小屋の外から焚き木を拾い集め囲炉裏で火をおこし始めたが水分をたっぷりと含んだ薪には炎にいきおいがつかない。S氏の1時間半に及ぶ奮闘でも火勢はいっこうに上がらず煙ばかりが小屋の中に充満した。
       懸命に「扇ぐ!」が・・・火種は消えかかる

かすかに赤い熾きを眺めながら夕食を済ませた。ここは標高1
,500b。猛暑の下界とは違い寝袋のカバーでのビバークは寒かった。くわえて先ほどの猛烈な煙に鼻腔が詰まり息苦しく、薄板一枚を通し外気が伝わり半身は冷たくなった。19時過ぎ就寝。

7月30日(金) 曇り時々日差し 蒸し暑く無風
深仙避難小屋【5:35】→太古の辻【615】→蘇莫山【635】→石楠花岳【720】→天狗岳【748】→奥守岳【812】→嫁越峠【850】→天狗の稽古場【905】→地蔵岳【926】→鞍部【950】→般若岳【1005】→滝川辻【1023〜】→剣光門【1120】→涅槃岳【11561255・昼食】→証誠無漏岳【1335】→阿須迦利岳【1422】→持経の宿【1458】→平治の宿【1630】・距離=10km 歩行数=19,900
 未明、雨は止んでいたが外は雲霧につつまれ、いつも山中で迎える朝は心地よい冷気がただようはずだが空気は重苦しい。闇の中、朝食用と行動中の水を確保するため200メートルほど先の“香精水”を汲みに出かけた。水場に着くと昨日の大雨が幸いし短時間で聖水を得ることができた。次第に明るくなってくるがご来光は望むすべもなかった。朝食を済ませ濡れた靴下を履き、露をしのぐため雨具を着装して出発。重いザックを担ぎミヤコザサを分け太古の辻に至と微風を感じた。ここ太古の辻から本宮大社までの45kmが大峯南奥駈のスタートである。

       太古の辻にて

ルート上にぽつんと一輪咲いているシロヤシオを見てトンネル状に石楠花が密生した樹木を潜りアップダウンを繰り返した。

     石楠花岳にて・行動記録をメモる

風はそよとも吹かない。枯れ木のてっぺんに止まっているホオジロが自分の縄張りを主張し盛んにさえずる。天狗の稽古場は倒木が多く永い年月を経て腐食し朽ち果て地面に平べったく痕跡を残している。まさに土壌に還る寸前もある。

       広い尾根筋でガスに巻かれるとルート注意

花期を終えたバイケイソウは枯れ水気を失い黒ずんでいる。

       バイケイソウ

涅槃岳への180mほどの直登は後頭部と首筋に日があたり苦しく先が思いやられる。二年前に登った弥山の「聖宝八丁」を思い出す。一つのピークを過ぎるとしばらく平坦な道が続き幅も広く気持ちよいルートになる。

 大峰南奥駈道は明治維新後の神仏判然令により廃仏毀釈の運動によって修験道は寂れ人が入らぬうち棄てられた山となっていた。近年「新宮やまびこグループ」の人々により再開発されたものの入山者は稀で藪漕ぎを強制され木の根っ子がはびこるような道なき道と悪路が大半を占めるのではないかと考えていたが快適な尾根上の重走路が続き意外であった。ときどきヒグラシの鳴き声を聞き微風が通ると元気を盛り返す。証誠無漏岳の南側で岩壁のクサリ場を下り阿須迦利岳を登り返し直ぐに急な坂をくだる。

       鎖 場

       岩壁のトラバース

持経の宿に着きベンチで暫らく休む。林道に入りその先で廻り込み尾根筋に入ると鬱蒼とした深林となり一際巨大な千年檜が祭られている。道端のスズタケは枯れ「10年に一度花を咲かせた後は枯れてしまい次の世代への再生がはじまる」と聞く。よく観ると根元に小さな芽吹きが見える。ミズナラの巨木を過ぎブナ林を下ったところに平治の宿がある。

     暑さと重荷を克服し・・・「平治の宿=避難小屋」に到着

小屋に入りザックをおろし、疲れてはいるが10分ほど西側に下り谷川から5リットルの水を汲み・・

       平治の水場

足場の悪い急な坂をバランスを崩しながら登り返し小屋に戻る。S氏が囲炉裏に火を起こし昨夜とは大違い景気よく燃えている。備え付けの大きなやかんにボウフラが泳ぐ天水を沸かし本日のご飯パックとシチュウパックを沸騰した湯につけ夕食とする。汲んできた沢水を一旦煮沸しガーゼで濾し冷ましてからペットボトルに移し替え明日の行動中の水を確保する。就寝20時。不思議なことに今夜もジェットの爆音を耳にする。

7月31日(木) 曇り時々日差し 蒸し暑く無風
平治の宿【5:05】→転法輪岳【540】→倶利伽羅岳【635】→怒田宿跡【822】→行仙岳南下・捲道出合【846】→行仙小屋【918・行動食】→笠捨山【1215〜】→葛川辻【1325〜昼食】→鉄塔下【1348】→槍ヶ岳【未確認】→地蔵岳【1435】→不動明王像【1519】→四阿の宿【1537】→香精山【1643〜】→塔ノ谷峠【1746】→上葛川(民宿・うらしま)【1840】・距離=14km 歩行数=24,000
 本日の行程は登りの累計が1,250m余、下りは1,900m余とハードである。ルート上の行仙岳と笠捨山の登りは覚悟する。外用薬とサポーターで膝の養生を行いそれぞれ3.5gの水を持ち出発する。古木の林を進み転法輪岳への急坂を登り幾つか稜線上の凸凹した尾根をたどる。

      歩きにくい網目模様の根っ子道

額からの汗は顔面を流れ胸を伝い腰をぬらす。水分補給は怠りない。倶利迦羅岳を下るところで単独行者に出会う。ザックは小さく一見奥駈道を歩くにはそぐわない軽装だが一人でこのルートを縦走するには経験を積み体力ある登山者であろうか。お互いに「初めて人に出会いました」と挨拶を交わし、どこから登りどこまで歩くのか、歳は幾つですか、などの会話を交わし、「お気をつけて」と挨拶し南と北に別れる。怒田宿跡から行く手に聳える行仙岳を見あげる。

       行仙岳を見上げる

S氏は重力に逆らいながらも軽快に坂道を登って行く。中腹ほどに達しふと上を見ると捲き道の標識が左の木に掛かっている。これ幸いと先行するS氏に断わりの声を掛け行仙岳の東側を横歩きする。あとで自分一人がこの安易な登り方をしたことで後悔する。南側の分岐で合流し広い道を下ると静寂な行仙小屋に着く。人の気配はなく暫らく休む。行く手に笠捨山が障壁のように立ちふさがっているがなだらかに南西へと連なる稜線を通して登ればさしてきつくはなさそうに見えるが・・・前進しても偽ピークが3峰ほどあり最後の峰から一旦下降して再登するにはすでに250m以上を登ってきたあとだけに残す150mほどの急坂では直射日光にさらされ無風の登りで朦朧となり無我の境地?に達したかのような状態となる。1分前に歩いたことも思い出せない。ブッカキ氷の入ったバケツに頭を突っ込み冷やしたい。いな、たとえ一杯の冷たい飲み水でも欲しいところだ。両足は地に着いていないような浮遊感を覚え正に苦行の境地となる。両腕のストックを後ろに押し2〜3度立ち休みをして心拍数を押さえながら登る。今回の縦走中で一番厳しい登りだ。

  行者さんですら疲れ果て「笠を捨ててしまう!」にちなんで名付けられた山名か?

頂上に至り三角点を見て西に向かって葛川辻へ下り昼食を摂る。見晴らしの良い鉄塔下から鋭く尖った槍ヶ岳を見あげる。

       標高差はないが見事な鋭峰

ここは奥駈道の核心部である。露出している木の根っ子、鎖や岩をつかみ三点確保で登る。槍ヶ岳の頂上部は確認できないまま幅のあるギャップを渡り地蔵岳の標識を見る。高度感のある下りには2箇所鎖場があり疲労した身には手強く油断ができない下降である。

       地蔵岳を下るS氏

四阿宿跡、菊の池や拝み返しなどの行場跡を通過し広くゆるやかな登りの香精山を越えると逆落としの下降となり膝の関節が悲鳴を上げてくる。

      長く急な下降

ここまで順調に前進してきたが次第に予定より遅れだす。相談して貝吹金剛(塔ノ谷峠)から上葛川へ直接下ることに変更する。

 行者さんはここから「ほら貝」を吹き上葛川の集落へ知らせたと言われる(別名:貝吹野

奥駈道から離れ谷筋の状態が判らないまま不安な気持ちで峠から黄昏迫る東側に下ると以外やゆるやかな沢筋で右岸側には明確な道が拓かれている。一帯は手入の行届いた巨杉が林立し光は届かず夕暮れが迫ってきたように錯覚する。風は全くなく湿気がひどく大汗がぽたぽたと落しながら40分ほど下ると廃屋が見え更に下ると舗装道路にでる。次第に暗くなり曲がり角の民家の灯りもなくバス停より右へ進む。どうも迷ったのではないかと一旦戻り道路ぎわの民家の玄関戸を叩いていると上の道からライトの灯りがゆっくりと降り軽トラックを認める。「“うらしま”はどこですか」と声を掛けると、80過ぎのお年寄りが「私が“うらしま”だよ」と答え車に乗せてくれる。ありがたいことに我々を心配し迎えに来てくれたのだ。桃源郷上葛川の“うらしま”の玄関で歓迎を受けるが、ザックを降ろしストッキングを脱ぐと足に山ヒルが喰らいついている。それを見た宿の小母ちゃんは即座にてきぱき指示し玄関から勝手口に回るように指示され山ヒルに塩をかけてもらうとポロリと落ち萎んでいった。顎や背中にもしぶとく取り付いていた。風呂に入り体内から吹き出た塩を洗い流し食卓に落ち着く。ビールは喉を潤し山菜料理をゆっくり味合う。極楽!就寝22時。

81日(木) 晴れ 蒸し暑く風なし
民宿・うらしま【630】⇒登山口【647】→岩ノ口・蜘蛛の巣【745】→稚児の森【802】→水呑金剛【837→花折塚【1015】→展望台【1125〜大休止〜1355】→世界遺産碑・かつえ坂道標【14::02】→玉置山【1428〜】→玉置神社【1455】・距離=6.5km 歩行数=14,100
 本日の行程は距離が短く標高差もわずかに700m弱なので楽しみながら散歩気分でゆっくり歩こうと意見一致。

     奥駈け道は林道と合流

ところがアスファルトの林道に出ると反射熱や照り付ける直射光がきつく容易でないことが分かる。ザックと背中の間に手を入れてみると熱く感じるほどである。林道から山道へ入るルートを探し進むと立派な展望台があり、大峰山脈の北面の山並みが眺められ彼方の釈迦ケ岳を見ながら何んとも長い峰々を歩いてきたことかと我ながら感心する。

     画面左の遥かに霞む峰が「釈迦ケ岳」〜右へと稜線を辿ってきた

西方の果無山脈も重隆とし存在感がある。足下には十津川の屈曲と集落が霞んで見える。

      十津川村の折立俯瞰

29日の大雨で未だ湿気が残る装備類をザックから出して砂利敷きに拡げ乾かす。

          食料以外を天日で干す

       少し軽くなった?ザック

 「かつえ坂」と名付けられた意味は何に由来するものかと気になっていたが標識には“餓坂”と併記されているので行者さんが玉置神社を目指し最後の坂を登るのに飢えと炎熱に耐えながら登ったので命名されたようだ。

     灼熱林道から雑木林のルートに戻り玉置山へ

しかし我々は長時間休んだあとなので快適に登ることができた。玉置神社の社務所で神主さんから「この暑さでは行者さんもバテますよ」とお聞きし、宿泊の規則(飲酒厳禁)と庫裏の説明、食事後の後片付けなどの説明を聞き「すべてのことに感謝する心を持ってお泊り下さい」と申し受ける。夕食を済ませ部屋に戻ると静寂の中から行場を祷拝する気合の込められた勤行の声が遠く近くに聞こえた。寝に就いたころ突然「鮎川さん!鮎川さん!警察の者です」と叩き起こされた。一体何事が起こったのか訳が分からず障子を開けると二人の制服姿の警察官が立っていた。五條警察署である。あらかじめ県警本部宛提出していた登山届を見てか、遭難者の情報を聞くために十津川から登ってきたのだ。「途中で72歳くらいの男の登山者に会わなかったか」、「下山予定をすぎても帰宅しないので留守宅から捜査願が出されている」と云う。昨日平治の宿から2時間ほど進んだところですれ違った唯一の登山者であることは間違いない。出会った状況や服装、下山コースなど記憶していることを話すが、不確かなことは言えないのでS氏にも起きてもらい一緒に知りえることを話す。30分ほど聴取され、我々の住所・氏名・連絡先を書面に書かされ、警察官は礼を言い帰って行った。すぐに「太古の辻から前鬼に降りる途中の沢筋が迷いやすいところであり、過去に幾人かの登山者が道に迷い行方不明となっている箇所がある。」ことを前鬼・小仲坊の五鬼助義之住職に聞いていたのでそれを指摘しようと後を追いかけたが彼らは既に下山していた。S氏と「無事であればよいのだが・・・」、「明日にはきっと人里まで降りて来るのではないか・・・」、「奥駈道を走破するにはザックが小さかったようだ・・・」、「深仙の宿で泊まると云っていたが・・・」。しかし思い返すとどうも腑に落ちない。彼が深仙の宿に昨夜泊まるとすれば本日が予定している下山日ではないのか?捜索願いが早いのではないか?・・・あれこれ気にかかり寝付かれなかった。就寝23時頃。

82日(木) 晴れのち一時雨 蒸し暑い
玉置神社宿坊【540】→犬吠檜【603】→本宮辻【612】→旧篠尾辻【733】→大森山【803】→大水ノ森三角点【816】→→本宮まで残り10km標識【828】→五大尊岳【9261022〜南峯・大休止=1106】→金剛多和宿跡【1112】→役の行者像【1235】→大黒天神岳【1305】→鉄塔下【1424〜】→宝筐印塔・山在峠【1455】→本宮大社(蒼空げすとはうす)【1635】・距離=15km 歩行数=29,000
 最終日。今日の行程は下降差が累計1,700m余りである。本殿に参拝しゴールまでの安全を祈願し15km先の本宮大社を目指す。

     玉置神社本殿にて

本宮辻まで下りはほぼ水平に歩き水呑金剛より尾根筋の登りとなり分岐を通りすごし大森山に至る。一旦下り五大尊岳の登りで疲れた足は次第に重くなる。玉置神社で作ってもらったありがたいお弁当をあけてみるが食欲は減退し1/3ほどしか喉を通らない。3〜4ケ所のアップダウンにスピードはいよいよ落ちてしまう。

       バテバテ状態

五大尊岳南峯からの下降から急峻となり木をつかみ足元を確認しながらストックに頼り膝へのショックを和らげる方法で下る。金剛多和から傾斜はゆるやかになり杉林の尾根道を下り大黒天神岳を登り直径1.5cmほどの丸い肉厚の落ち葉が敷きつめられ、油性を含んだ落葉に足を滑らせながら再び長い斜面を下ると鉄塔があり、ここからゴールの本宮町の特徴ある集落が見えてくる。

      十津川と本宮町大居

携帯が通じるかもしれないと気が付き電源を入れてみるとアイコンは3本表示されている。早速本宮大社に宿泊を申し込むと予約客で一杯のようで断わられる。教えて戴いた観光協会に電話を入れ紹介を受けた宿に予約する。S氏の携帯電話も通じ五條警察署からの受信記録が入っている。S氏が電話を掛け直すと朗報が飛び込んでくる。遭難者は「今朝、沢に水を飲みに降りて来たところを保護されました」と聞く。とあれ良かった!と二人で安堵し喜び合う。ゴールまで残すところ3kmほどの地点となり食料や水も少なくなりザックの重量は12kgほどと軽くなっているが一歩下るごとに足裏のマメに圧がかかり痛む。南の方角の空模様が怪しくなってきたので山在峠で相談して林道に逸れアスファルトに沿って進み廃屋の前を通りそのまま下る。急に夕立となり大粒の雨が降りだすがすぐに止む。

     大峯最後の峰と十津川

 宿は昨年オープンした清潔感のある綺麗な民宿で、桧材の香りが気持ち良く極楽気分でゆったり湯船にひたる。若いオーナーの心のこもったもてなしを受け、5日間の様々なことが思い出されさっぱりした気分で「無事南奥駈完走」を祝し乾杯する。

「蒼空(あおぞら)げすとはうす」

                http://www.kumano-guesthouse.com/

83日(木) 晴れ 蒸し暑い
蒼空げすとはうす【11:00】 マイカーにて311号線⇒198号線⇒県道22号線⇒有田IC⇒紀ノ川SA⇒新大阪【1535】⇒帰宅【1620
 朝、熊野本宮大社に詣で「無事大峯奥駈道」を無事に完遂できたことを感謝する。


帰路へ。S氏は新大阪駅より新幹線にて帰宅。

あとがき


 静寂の峰々を走破する念願がようやく叶った。この年齢になり大峯奥駈道全行程を走破でき喜びに耐えない。写真を見ながら幸福感と満足感に浸っている。
 50余年前から山に接してきたが老境に達してから「大峯の山々は日本人の原点の山では・・・」と思う気持ちが強くなり、いつかこの峰々を歩き通したいという願望は絶えることはなかった。2年前の夏、二人の同行者(尾崎進氏とY氏)と共に洞川から前鬼まで大峯中奥駈道を歩いた。また、吉野から洞川までは随分昔に歩いていた。残された大峯南奥駈道を歩き完結したいと強く思っていたが独りで出掛けることは万一の事故の場合に世間に迷惑を掛けることになるし、また周囲の反対もあり実行出来ないまま歳月を過ごした。

 計画段階で南部縦走(五日間)の総登降差は登り累計が4,200m余と下降累計は5,400m余であると事前に地形図(インターネット検索・国土地理院地図サービスで拡大)で調べたが、地図では判読できない稜線上の無数のアップダウンを加えると更にこの数値は多くなろう。また、参考文献に載せられている峰だけでも30余峰に及びそれらの峰は直登し更に次の峰に直下し向かうのが特徴となっている。縦走中ゆるやかなジグザグ道はほとんどなかった。また、地形図を見ながら登降折線グラフを作成した。それにより鞍部から次の頂上までの平均傾斜は急なところでも20度程度と判断していたが、涅槃岳、行仙岳、笠捨山、槍ヶ岳、五大尊岳などでは一部の傾斜が30度以上に及ぶ箇所もあり、樹林帯を除き、急登中に太陽に直接照らされると生理的にこたえた。片や大峯南奥駈の課題は水の確保であり、おのおの3.5gの水(含む:ポカリスエット1g)を携帯して歩いたが、行動中の大量の発汗に対し応分の補給は出来なかったように思う。猛暑季の奥駈には最低でも4リットルは準備しなければならないであろう。小水回数は発汗の為、著しく減少し、量も少量で黄褐色を呈した。個人装備、共同装備、食料などは当初計画した通り過不足はなかった。三日目の昼食兼行動食(乾パン)は入山前にフライパンにバターを入れて煎り砂糖をまぶして別袋に移して持参すべきであった。今回の計画を実行するに当たって5月から週に一回の割合で比良山系や京都北山に登り歩荷トレーニングと猛暑順化を行ったが、普段のハイキングでは担いだことがなかった重量18kg余は筋肉が落ち退化した肩に直接当たりこたえた。
 今年が最後のチャンスと思っていた南部を歩き通し大峯奥駈全走破を達成できたのはS氏の同伴があればこそ可能であった。すべての行程が終了したゴール地点で「良い山行ができた。思い出に残る山となった。ありがとう」と声をかけてもらい同伴した者としては望外の喜びと共に、氏に深甚の感謝を捧げたい。
 最後に、我々は今回5泊6日を要して歩いたが通常は4泊で歩くコースであろう。高年者にとって真夏の奥駈道縦走は避け涼しい季節を選ぶべきとお勧めしたい。 

大峯の山々には「感動・感激・感謝」がある
         苦しい山歩きのあとには大いなる喜びがある

 ☆ 一部改定版

                               2010年8月8日 記

持参地図:国土地理院「釈迦ケ岳」、「池原」、「大沼」、「十津川温泉」、「伏拝」、「本宮」(
        25千分の1)及び国土地理院 インターネットによる「地図閲覧サービス」

参考文献:『大峯奥駈道 七十五靡』 森沢義信著 ナカニシヤ出版

        S氏及び氏が撮影した写真の掲載はご了解を得ました。

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